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『ブレックファスト・クラブ』(ジョン・ヒューズ)

The Breakfast Club/1985/US

バーノン先生、僕たちがせっかくの土曜日に登校を命じられたのは当然の報いだと思います。僕たちは間違いを犯しました。
でも自分とは何かという作文を書けだなんてばかげています。意味がありません。
先生は色眼鏡で僕らを見て、自分に都合よく何かを決め付けてるから。
僕らはガリベンに
スポーツ馬鹿
不思議ちゃん
お姫様
チンピラ
でしょ?
今朝7時まで僕らもそう思っていました。
そう思い込んでた。

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 シンプル・マインズの名曲「Don't You Forget About Me」に乗せて、5人の高校生が土曜日の学校に登校してくる。父親のBMWで送ってもらったクレア(モリー・リングウォルド)は誰もがあこがれる学園のお姫様(Princess)。授業をサボってショッピングに出かけただけで補習を受ける羽目になり、不満たらたらだ。見るからにダサいニット帽をかぶったブライアン(アンソニー・マイケル・ホール)は車の中で母親になじられている。「これは最初なの?最後なの?」。物理部に所属するガリ勉(Brain)がなぜ補習を受けることになったのかは、ここではまだわからない。

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 一方レスリング部の特待生、スポーツ馬鹿(Athlete)のアンドリュー(エミリオ・エステベス)も父親に責められていた。「奨学金がもらえなくなる」という言葉に露骨に苛立ち、乱暴に車のドアを閉める。アンドリューの父親の車が通り過ぎると画面の奥からジョン(ジャド・ネルソン)がってくる。5人のなかで唯一ひとりで登校。補習の常連のチンピラ(Criminal)だ。続いて画面にすべりこむ別の自動車。後部ドアから降りたアリソン(アリー・シーディ)が運転席に話しかけようとすると、車はすぐに出発してしまう。ゴスメークにぼさぼさの髪の毛、やけに大きなバッグを抱えた不思議ちゃん(Bascket Case)。この短いオープニングのなかで、5人の若者のおかれた状況や葛藤はほとんどすべて出そろっている。

 アメリカのスクールカーストを真正面からあつかった初めての作品として、映画史に燦然と輝く『ブレックファスト・クラブ』は、たがいの名前すら知らなかった5人の高校生のたった半日間の交わりを、みずみずしいタッチでつづる。主要な登場人物はこの5人に、教師と用務員を加えた7人のみで、ほとんどの場面が図書室を舞台としている密室劇だ。映画より演劇向きのシナリオといえるかもしれない。じっさいアメリカでは演劇で本作を扱う高校が多いらしい。一見してシンプルな映画だが、登場人物の心理や関係性の力学が毎分のように更新されていく複雑な映画である。くり返して見れば見るほど、細密に考え抜かれた構成の妙、レイヤーを幾層にも重ねたかのような人物造形にうならされる。

 時系列や場所の変動すらほとんど見られない。バーノン先生から、「自分とは何か」という抽象的な作文課題を与えられ、約8時間の補習を過ごす5人の様子を定点観測する。彼らが同じ学校に通っているのに、たがいの名前すら知らないのには理由がある。5人は身を置いている家庭環境がちがう。家庭環境がちがえば、人生哲学がちがう。人生哲学がちがえば、付き合う友達がちがう。付き合う友達がちがえば、それはもうほとんど異世界で生きているようなものなのだ。そんな異人種たちが同じ空間に放り込まれ、共通の課題を与えられる。5人は「ちがい」から衝突をくりかえし、一方で教師の叱責を逃れるために野合することにもなる。対立と共犯を行き来しながら、期せずして「自分とは何か」という問い掛けに、認識を深めていくことになる。
 たとえば、昼食のシーンはどうか。大量の食べ物を机に並べるアンドリュー、トーストに粉砂糖とスナック菓子をはさんでかぶりつくアリソン、すし(!)をつまみはじめるクレア…。家庭環境の異なる5人のランチは、ほとんど食文化の違いとすらいえる。

 昼休み中、ジョンは「ジョンソン家の日常」と題してブライアン一家の様子を即興で演じ始める。ジョンによって極端にカリカチュアされた即興劇を初めは笑いながら見ているアンドリューが少しずつ表情を曇らせていくのは見逃せない。他人ごとだと思って見るうちに、自分にも思い当たるふしがあると気づいてしまうのだ。コメディ的効果をねらって誇張された5人の「ちがい」が、しかし、徐々にシリアスさを増していく。こういうところが、『ブレックファスト・クラブ』の油断ならないところだ。アンドリューの表情は、のちに明かされる彼の「補習に呼ばれた理由」の伏線にもなっている。

 もちろんブライアンの表情も暗い。アンドリューはブライアンの表情を見た上で、「お前はどうなんだ」とジョンに仕掛ける。このとき、アンドリューはほとんど初めてブライアンに共感する。

 暴力が横行するジョンのハードな家庭環境を聞き、アンドリューは「イメージ作りのためのでっち上げ」だと切り捨てる。ジョンのように父親に突っかかった経験など、アンドリューにはただの一度もないのだろう。ジョンは、父親に葉巻で付けられたやけどの跡をアンドリューに見せつける。反抗的な態度をとりながらも、つねにその言動にユーモアを忍ばせてきたジョンが、初めてストレートに激高する場面だ。ジョンが育っている家庭はほかの4人とは全く違っている。少なくともジョンはそう自覚している。確かに5人の中でジョンだけは一人で登校してきたし、昼食もない。つまはじきにされ生きていくことがほとんどあらかじめ決まっているような人間だ。どんなにもがいても飲んだくれで役立たずの父親と同じ人生を歩んでいることが目に見えている。持たざるものとして、周囲に唾を吐き中指を立てることしかできない。
 こうしたジョンの生き方もまた、バーノン先生によって完膚なきまでにたたきのめされる。先生は、ジョンの将来について偏見と悪意に満ちた、だか限りなく真実に近い言葉を吐きかける。5年後のジョンは誰からも尊敬されないろくでなしになってしまっているのだろうか。あまりの迫力にジョンは、得意の憎まれ口を叩くことも、殴り返すこともできない。この痛ましい敗北ぶり。だが、ジョンの成長を促す場面でもある。確かにジョンの境遇は恵まれているとはいえない。しかし彼はシニカルなアウトローとして振る舞うことで、自分の生き方を決め付けていた。バーノン先生は完全な正論をもってジョンの偽悪性を喝破する。

 衝突をくりかえしながらも、彼らの共犯関係はふしぎと強固になっていく。天井裏をつたって図書室に戻ってきたジョンをかくまうため、ほかの4人がせき払いでごまかす場面で、その関係は決定的にとなる。この後すぐにマリファナを吸ってハイになるわけだが、唯一、ほかのみんなと距離を詰められるにいるのがアリソンだ。アリソン以外の4人は同じ画面に収まる頻度が増えてくるが、アリソンが登場するカットは意図的に割られている。ほかの4人が両親との関係のしがらみにとらわれているのと対照的に、アリソンの家族関係は破たんしていた。突拍子もないうそをついたり、かばんの中身をぶちまけたりする奇抜な行動でしか、周囲とコミュニケーションをとることができない。それすらも彼女にとって勇気がいることだったのかもしれない。一緒に過ごした数時間を通して、コミュニケーションへの淡い期待を抱き、彼女なりのSOSを発した。そんなふうにもおもえる。

 約20分にもおよぶ終盤の会話劇は、5人の人生哲学がぶつかり合う映画の総決算だ。これまで登場してきたさまざまな議題が俎上に載り、関係性がめまぐるしく変遷していく。最初に取りざたされるのは「性体験」の話題。他愛もない会話をするクレアとアンドリューに対して、アリソンが唐突に「エッチなことなら何でもする」と割って入る。浮ついたファンタジーに淫してちっとも現実の話をしないクレアへの攻撃ともとれる。露骨な拒絶感を示すクレアにアリソンは「あんたはやったことあるの?」と追求し、「したことないって言えば堅物、あると言えばあばずれ。どっちも損をするからあなたは答えられない」とクレアの虚飾性を暴いていく。ジョンも加勢し追い詰められたクレアはついに自分が処女だと認める。しかしそんなことは、昼休みブライアンの童貞を肯定したことからもあらかた予想はついていた。重要なのはクレアが自分の内面をさらけだしたことだ。クレアの答えを引き出し満足したアリソンは実は自分もセックス体験がないと打ち明ける。
 クレアはアリソンを変人呼ばわりするがアンドリューは「俺たちみんな変だ」と擁護する。アンドリューは自分が補習に呼ばれた理由を語り始める。アンドリューが補習に呼び出された理由は「ラリー・レスターの尻(背中)にテープを貼った」こと。体育会系いじめっこ(ジョックス)にありがちな行為だった。思わず吹き出してしまうクレアと動揺するブライアンの反応が対照的だ。ラリー・レスターはブライアンの友達でもあった。アンドリューの標的はひょっとするとブライアンだったかもしれない。相手は弱虫なら誰でも良かった。アンドリューの行動にはさらに根深い問題があった。若いころの悪行を自慢する父親へのコンプレックスもあったのだ。

過剰なマッチョイズムと競争主義を押しつける父親への不満をぶちまけ、ついには泣いてしまう。彼がこんな情けない姿を人前で見せたことがあっただろうか。おそらくふだんの友達に告白することはできない。まったく無関係のメンバーだったからこそアンドリューは自分をさらけだすことができた。ひとつひとつの言動に注目すると、ヒューズ監督が細心の注意を払いながらアンドリューというキャラクターの物語を紡いでいることがわかる。ジョックスとしての典型的なふるまい(「力」「勝利」への執着)を基軸としながらも、自分の意見が持つことができない弱い人間として丁寧に描き込まれているんです。彼が人の表情を読み取ることに異常に長けていたのもそのためではないか。アンドリューの話を聞いたジョンは「俺の親父とお前の親父でボーリングにでも行けばいいのにな」とジョークを飛ばす。昼休みにジョンの家庭事情を作り話と決め付けたアンドリューへの「ゆるし」にもなっている。
 次にブライアンがアンドリューに共感を示す。アンドリューにとってのスポーツがブライアンにとっての勉強。のしかかるプレッシャーじたいに変わりはない。ブライアンは「馬鹿なやつらが取っているから」楽勝科目だと思い込んでいた技工で赤点を取ってしまったことを明かす。ジョンも技巧を取っていて、ここでもブライアンの偏見が暴かれる。ブライアンは「三角法も知らないで技工が成立するはずない」と言うが、ジョンは技工を落としてしまうなんて「逆に天才だ」と一蹴する。
 「どっちかが優れているとかではない」とクレアが二人の間に入る。クレアも、アンドリューも、ブライアンも、学校内でのイメージと偏見にとらわれていた。こうした中で、クレアは手を使わずにグロスを塗るという特技を披露する。かなり打ち解けたムードなので全員で盛り上がるのだが、ジョン一人だけが「お嬢様イメージは失墜したな」とイヤミを言い出す。アリソンとアンドリューがジョンを批難するがジョンは「俺なんて数に入らないんだろ」(最初の会話の場面の反復)とはねかえす。ジョンの中のわだかまりは消えていない。ジョンはクレアへの攻撃の手をゆるめない。ジョンとクレアの世界はあまりに違いすぎた。5人が少しずつ交流を深めていただけに痛ましいが、こういう場面が『ブレックファスト・クラブ』の青春映画としての誠実さだと私はおもう。5人は少しずつ互いのことを理解し、好きになり始めている。だからこそ、知れば知るほどに浮き彫りになる見えない壁に胸が苦しくなる。
 プレゼントにもらうのはダイヤモンドのピアスかタバコ1カートンか。クレアとジョンの格差の原因はたぶん両親の違いにある。お互いの間に深い溝があることは確かだが、5人とも両親という足かせにもがき苦しんでいることは共通しているようだ5人の心の弱さを現時点で一番深く把握しているアンドリューが「自分たちも親みたいになってしまうのか」という疑問を口にする。
 真っ先に「自分はいやだ」と言ったのは意外にもクレアだった。ジョンが少し驚いた様子でクレアの方を見て微笑む。ジョンはこのときクレアにちょっとだけ救われたのではないか。ジョンとクレアにはまだまだ歩み寄る余地がある。ジョンとクレアの未来は決まりきっているようで、ほんとうは決まっていない。クレアの言葉がジョンの心に響いているのがわかり、このシーンにはいつもじんとしてしまう。これに対しアリソンはいくぶんペシミスティックな態度をとる。「大人になると心が死んでしまう」。誰にもそれを止めることはできない。
 そしてついに『ブレックファスト・クラブ』最大のテーマをブライアンが口にするときがきた。僕たちは友達になれた。でも月曜日も友達なのか。誰もが気になっていたこと。同時に少しだけ答えも見えていたこと。それでも目をそらしてやり過ごそうとしてきたこと。クレアが残酷な事実をブライアンに告げる。「無視する」。アンドリューとジョンに激しく批難されてもクレアは毅然とした態度ではねのける。「同じ体育会系の友達の前でブライアンが話しかけたらどうするか。きっとあなたは『やあ』と返事をしたあとでブライアンの悪口を言うわ」、「あなたはアリソンを不良の集まるパーティに連れて行く?ブライアンを昼休みにマリファナに誘える?私が話しかけてきたら?きっとあなたは『あいつはやらせてくれるから付き合ってるだけだ』っていうはずだ」。図星だからアンドリューもジョンも言い返すことができない。

 クレアとジョンの言い争いを聞きながら思わず涙をこぼしてしまうブライアンの表情にも胸が締め付けられる。この映画の中ではどの人間も等しくいい奴で等しく嫌な奴だ。互いが本気で理解しあおうとしたときのあつれきが冷酷なまでに描かれている。「あなたには私たちのプレッシャーを理解できない」というクレアに、ブライアンは激怒する。そして、自分が補習に来た理由は、隠し持っていた銃が見つかったからだと告白する。技工の赤点は自殺を考えるほど彼を追い詰めていたのだった。深刻さのレベルでは群を抜いているし、これにはほかの4人も慄然とする。だが、ロッカーでフレアガンが暴発した話を聞いて思わず吹き出してしまうアンドリュー。「笑えない」と制止するブライアンだったが、「笑えるね、象のランプ(技工の課題)はこなごなになったよ」と言って微笑む。たぶんこの瞬間にブライアンの苦悩も氷解したのかもしれない。人に話すだけで解決することってあるよね。

 少し空気が和らいだところでアリソンも補習に来たわけを明かす。何も問題を起こしていなかった。ただ退屈だったからここに来たという。いっせいに笑い出す5人。私はここでいつも泣いてしまう。全編を通しても、5人が同じフレームの中で一緒になって笑っているのは実はこのワンカットだけなのだ。月曜になればいつもどおり。5人がこんなふうにそろって笑う瞬間はおそらく永遠に来ない。彼ら自身もそのことに気が付いている。刹那的で夢のようなつながり。でも5人はそれぞれにここでしか得られない大事な何かを手にしたのだ。
 5人がダンスをする場面はいかにも80年代という印象があるが、その意味ではクレアがアリソンに化粧をする場面はある種の「経年劣化」を感じずにはいられない場面だ。まだティム・バートンが登場していない80年代の限界といったところだろうか。アリソンは自分らしさを捨ててクレア側の美意識に屈服してしまったようにもとれる。私も当初はそう思ったが何度か見ているうちに考えが変わってきた。どうしてこんなことをというアリソンの問いに対しクレアは「Because,You're Letting me(あなたがそうさせてくれるから)」と答える。この場面は「クレアの思いやり」であると同時に「アリソンの思いやり」でもある。彼女たちにとっての別れの儀式にもなっている。アリソンは月曜日にはまたいつものゴスメークに戻っているのかもしれないが、クレアの思いやりを受け入れたことは彼女にとって大きな意味を持つとおもう。

 5人は月曜日からまた友達ではなくなってしまう。2組のカップルもそう長続きはしないだろう。だが私はそれが悲しいこととは、もう思わない。『ブレックファスト・クラブ』が他の青春映画と一線を画しているのは、彼らがついにははなればなれになってしてしまう、その痛みをも描いているところにある。5人はこの半日間でほんの一瞬だけ交わり、火花を散らして、またそれぞれの道へと帰っていく。では月曜日から彼らは先週と同じガリ勉で、スポーツ馬鹿で、不思議ちゃんで、お姫様で、チンピラなのか。それは半分正解で、半分間違ってもいる。明日からは違う、いつものぼくら。確かに月曜日の学校はいつもどおり残酷に彼らを迎えるだろう。だけど、もう先週と同じ自分には戻れない。そのことを「ブレックファスト・クラブ」だけが知っている。
 『ブレックファスト・クラブ』はアイデンティティについての物語だ。「個性」とか「人それぞれ」という言葉が乱暴に都合よく使われてるように思う。かつて金子みすゞは「みんなちがって みんないい」と書いた。しかしそれは金子が生きた時代において「違い」が保証されていなかったからだ。「みんなちがって みんないい」という言葉を最初からおまじないのようにつぶやいてしまうのが今の日本だと私はおもう。異なる価値観から目をそらし、思考停止するためのエクスキューズに成り下がってしまってはいないか。「個性」とはほんらい、違いを確認するプロセスは身を削り、血を流すような苦しみと痛みを伴うものではないか。そうしてぐちゃぐちゃに混ざり合って、信じていた「個性」なんてこなごなに破壊されてしまって、その中で初めて誰にも奪われることのない自分だけの「ちがい」があるのではないか。『ブレックファスト・クラブ』の5人は、それぞれの肩書きと役割を次々と引きはがされ、何ひとつ残らなくなってしまうような激しい精神の揺らぎの中で本当の自分をつかみとっていく。ラストカットでジョンが突き上げたこぶしは、未熟だけれど、誇り高い未来を確かに握りしめている。

バーノン先生、僕たちがせっかくの土曜日に登校を命じられたのは当然の報いです。
でも自分とは何かという作文を書けだなんてばかげています。
先生は色眼鏡で僕らを見て、自分に都合よく何かを決め付けてるから。
でも今日気づきました
僕らはガリベンであり
スポーツ馬鹿
不思議ちゃん
お姫様
チンピラ
答えになっていますか。
以上です。ブレックファスト・クラブより