第1位『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ)
Carrie/1976/US

私が通っていた中高一貫の私立校では、中学までが男子校で、高校に上がると少数の女子が入り共学化した。私は高校進学後も男子クラスだったので、結局女子と会話ができたのは中高6年間で数えるほどしかなかった。こうした経験はその後の私の人生に少なからず影響したようにおもう。自分の性格を棚に上げるつもりもないし、責任を転嫁するわけでもないけど、女性と会話するのにはいまだ苦手意識がある。だけれどもっと厄介だったのは、同じ男性への不信感が身についてしまったことだった。3年間異性から隔絶していた男たちは急に女を意識して、洗面所で頻繁に髪の毛をセットしたり、制服をだらしなく着崩したりし始めた。女子部員の多い吹奏楽部の希望者が増加し、仲の良かったバスケ部員たちはマネージャーの女の子をめぐって仲間割れした。そうした同級生の姿は、率直に言って見苦しかった。私も人並みに女子に興味があったし、話をしてみたくもあったけど、こんなに醜く、あさましい「求愛競争」に加わるなら死んだほうがましとさえおもった。
だから、高校の夏休みにレンタルビデオで『キャリー』を見たときの胸がすくような快感は忘れられない。学校ではいじめられてばかりで特別あつかいされたことなんて一度もない。家ではキリスト教福音主義者の母親による息が詰まるような抑圧が待っている。そんなキャリー・ホワイトが一瞬だけつかみかけたささやかな青春の輝きも、クラスメートの心ないいたずらで無残に奪われてしまう。封じ込めていた力を解放して、キャリーはプロムを血祭りにする。血まみれで目を見開き、鮮やかな炎の背にしたキャリーが、うんざりするほど醜い学校空間に復讐する女神に見え、私は心のなかで快哉をさけんだ。
プロムは男女がつがいをつくり、最も魅力的なカップルをたたえる。こんなくだらない風習が日本にはなくてよかったと胸をなで下ろしたものだが、日本の高校だっておのおのの性的魅力や体験を、試し、比べ、競い合う理不尽な世界におもえる。デ・パルマは、まるで自然界の動物たちのようなきびしい「性の戦場」としてハイスクールを描いている。
バレーボールに興じる女子高生たちを俯瞰でとらえたカメラが、ひとりの少女へと近づいていく。おどおどとしたそぶりの少女は案の定しくじり、クラスメートからののしられる。あわれな主人公の境遇を示す短いオープニングシーン。続くセカンドショットのイメージもまた鮮烈だ。ピノ・ドナッジオの流麗な旋律にのせて、ロッカールームで着替える少女たちをスローモーションでとらえていく。シャワーの湯気の中から浮かび上がってくる裸の少女たち。ルノワールの絵画のように生々しい官能が画面に充満する。その奥でシャワーを浴びるキャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)のからだは青白く貧相で、いかにも魅力に欠ける。だがキャリーのふとももを一筋の血がつたいおちたことで、彼女もまたきびしく、醜い「性の競争」に加わらなくてはならないことを告げる。自分の経血に取り乱したキャリーを、担任のコリンズ先生(ベティ・バックリー)が落ち着かせようとするが、カメラは先生の乳房をクローズアップし、2人の性的な対比を強調する。実際の役者は撮影時、2歳しか変わらなかったわけだが。
キャリーが初潮すら知らないほど性知識に乏しいのには理由がある。母親マーガレット・ホワイト(パイパー・ローリー)が女性の成長(性徴)を罪とみなし、まともな性教育をしてこなかったからだ。『ハスラー』(1961年、ロバート・ロッセン監督)から25年ぶりハリウッドに復帰したパイパー・ローリーはこの狂信的な母親役でふたたび話題をさらった。50年代にはダグラス・サーク監督のコメディ映画(『突然の花婿』『ぼくの彼女はどこ?』=いずれも1952年=)にも出演。ここでは逆に欲深い家族に翻弄される娘を演じている。マーガレットが自宅に戻る場面では古くなった「売り家」の看板が隣に立っていて、ホワイト家が人が地域から孤立していることをうかがわせる。
キャリーをいじめていたスー(エイミー・アーヴィング)は偶然、キャリーの特殊な家庭環境を知ることになる。反省し、ボーイフレンドのトミー・ロス(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムに誘うように提案する。一方、いじめの主犯格だったクリス(ナンシー・アレン)はキャリーへの逆恨みを募らせ、ボーイフレンドのビリー・ノーラン(ジョン・トラボルタ)と共謀し、復讐計画を練る。デ・パルマは、映画の中のハイスクールを一種の女系社会として描く。男子は女子の命令にしたがう傀儡に過ぎない。
キャリーがトミーの招待を受け入れると、映画は学園青春ものへと大胆に舵を切る。たどたどしい手つきでグロスの色をためすキャリーの姿や、パーティーへ着ていく服を選ぶトミーたちの様子は、この映画がホラーであることをしばし忘れさせてくれる。トミーの友達がボンクラっぽいところもいいんだよね。いじめっ子側のノーマ(P・J・ソールズ)がトレードマークのキャップを律義にパーマ機の上にちょこんと載せているのもくすりとくる。
わけても私が気に入っているのは、トミーとキャリーがプロム会場に到着した場面だ。緊張したキャリーは意を決して車のドアを開けるが、何かを思い出してすぐに閉じてしまう。祈るような面持ちで、じっと待っていると、運転席から回り込んだトミーが助手席のドアを開けてくれる。期待と不安が入り交じる乙女心をシシー・スぺイセクがみごとな演技で表現している。トミーが開けたドアはキャリーにとって長い間閉ざされていた他者への扉だ。あまり言いたくないけど、リメーク版『キャリー』(2013年、キンバリー・ピアーズ監督)にどうしても物足りなさがあるのは、こういうディテールなんだよなあ…。
それにしても驚嘆すべきはキャリーの変貌ぶりである。本当にプロムの会場で最も美しい女性に見える。はじめはスーの命令でいやいや付き合っていたトミーも、だんだんとキャリーに惹かれ、ダンスをしながらふたりはキスを交わす。甘くとろけるようなメロディときらきらしたライティング。ふたりの周囲をぐるぐると回るカメラはもちろんデ・パルマ監督が心酔する『めまい』(1958年、アルフレッド・ヒッチコック監督)へのオマージュだ。文字通りめくるめく幸福の瞬間に、このまま、映画が終わってしまえばいいのにとさえおもえる。
「ベスト・カップル」の投票用紙で自分たちの名前に印をつけるキャリー。クローズアップになった印は「十字架」として象徴的に映し出され、照明が赤く染まる。ここから画面も、音楽も、ふたたび恐怖映画に転調し、映画史に刻まれるクライマックスが幕を開ける。流れるようなカメラワークと計算し尽くした編集、俳優たちの立ち回りとドナッジオのスコアが絡み合い、突き進んでいく。この瞠目すべきシークエンスに、デ・パルマは撮影に2週間、編集に4週間をかけ、心血をそそいだ。「デ・パルマ・ギミック」とでも呼びたくなる精密機械のようなクライマックスの演出方法は、その後の彼の作品群に引き継がれていく。
ノーマが投票用紙を集め、ボーイフレンドとキスするふりをして、あらかじめ準備した別の投票用紙とすり替える。それを審査員の先生たちに手渡し、ステージ下に隠れたクリスとビリーに合図を送る。カメラがステージ裏に移動するとスーがやってきて会場をのぞきみる。今度はスーの手元にあるロープをたどってカメラが上昇し、ステージの上に仕掛けられたバケツをとらえる。司会の生徒がベストカップルの名前を読み上げると、カメラはバケツから、トミーとキャリーに視線を移す。この間はすべてが切れ目のないワンカット。巧妙かつ精緻なカメラワークが、逃れられないわなと重なり、切実さを増す。ステージ上で拍手喝さいをあび、幸せをかみしめるキャリー。「復讐のとき」を待ちわびてロープを握りしめるクリス。仕掛けに気がつくスー。会場にいるはずのないスーの姿をみとめ、不審がるコリンズ先生。それぞれの思惑と視線が編みこまれ、スローモーション映像とストリングスの演奏が、緊迫感を高めていく。
そして、ついにその瞬間が訪れる。血まみれになったキャリーの頭の中には「みんなの笑いものになる」という母親の予言がこだまし、さげすまれてきたみじめな記憶がフラッシュバックする。キャリーを思っていたコリンズ先生やスーも残酷なわなに貢献してしまった皮肉。デ・パルマお得意のスプリットスクリーンで皆殺しの地獄絵図が展開する。自動車でキャリーをひき殺そうとしたクリスとビリーも返り討ちにあい爆死。
呆然として家にたどり着いたキャリーはようやく正気に戻り、バスルームで血を洗いながら涙を流す。圧倒的な破壊の力を見せてもなお、彼女はか弱く、孤独な存在に過ぎない。悲劇はそれだけに終わらなかった。「ママの言う通りだった」と母親にすがりつくキャリーの背中に、マーガレットはナイフを突き立てる。母親もまた哀しい性の犠牲者であった。キャリーのテレキネシスではりつけにされ、聖セバスチャンの殉教よろしく快楽に身をふるわせながら絶命する。キャリーはそのなきがらを抱きしめ、今となってはたったひとつの居場所となってしまった懺悔室で心中するのだった…。
惨劇から唯一生き残ったスーがトラウマと罪悪感に苦しみ続けるところで物語は終わる。ラストのショッカー演出は『13日の金曜日』(1980年、ショーン・S・カニンガム監督)など多くのホラー映画で模倣された。当然、私も死ぬほどおびえた。でも単に驚いただけではないのだ。映画を見ながらすっかりキャリーに感情移入していた私が、この瞬間に気づかされた。私はキャリーのようないじめられっこではなかった。むしろその逆だったのだ。みなから無視され、からかわれ、いじめられていたクラスメートを、私は助けなかった。一緒になって笑いもした。友達にねつ造ラブレターを送り付ける計画に加担したことさえある。にせのラブレターを受け取った彼が小躍りするのを見たとき、私は笑っていた。
プロム会場をつつむ業火に、私もまた焼かれるべきだった。そして悪夢にうなされるスーと同じく、取り返しのつかない過ちに苦しむべきだった。何度見たって映画の結末が変わらないように、私の後ろめたい青春もやり直すことはできない。できることは、この孤独な少女の物語をくり返し見ることだけ。そして、いつも思い出す。すべてが醜く、くだらなく見えた学校を。周囲を見下すことしかできなかったおろかな十代を。ひきょうな私が手を差し伸べなかった、今となっては名前すらも忘れてしまったキャリーたちを。








第2位『怒りの日』(カール・テオドア・ドライヤー)
Day of Wrath/1943/DK

2008年、国内の上映権切れに伴って、カール・ドライヤー監督の5本の長編映画が最終上映された。『裁かるるジャンヌ』(1927)、『吸血鬼』(1932)、『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルーズ』(1964)という、今考えても垂涎のラインアップである。だが、当時の私は『怒りの日』の衝撃と興奮にすっかり取りつかれ、ほかの作品についてはほとんど印象がないというありさまだった。以来『怒りの日』は、私の浅薄な映画体験の頂点に君臨し、心の中で鈍く、暗い輝きを放ち続けてきた。
『怒りの日』はキリスト教最大の汚点ともいえる魔女狩りを題材に取った映画だ。ドライヤーは『裁かるるジャンヌ』ですでに魔女狩りをあつかっているが、本作は実在の魔女を描いた戯曲「アンネ・ペータースドッテル」を原作にしている。『裁かるるジャンヌ』と比べ、善と悪、聖と俗の線引きがよりあいまいになっていて、相互が複雑に絡み合っている。明確なモラルの提示はされないし、歴史の罪を告発しようとする姿勢も皆無だ。後世の人間が歴史を振り返り、「後出しじゃんけん」で批評を加えるような傲慢さからドライヤーは距離を置いている。
ドライヤーという作家を論じるために、彼の生い立ちについて触れなくてはならない。カール・ドライヤーは1889年、裕福な地主が女中を身ごもらせた私生児として生まれた。彼の母は地主一家の命令でデンマークにわたり、コペンハーゲンで秘密裏にカールを産んだのだった。カールはやがて厳格なドライヤー家に引き取られたが、その少年時代は決して幸福なものではなかったようだ。17歳で家を出たカールが養家を訪ねることは二度となかったからだ。はなればなれになった実母はさらに苦難の道を歩んだ。カールを産んだ後にスウェーデンに戻り、別の男性の子どもを妊娠したが、相手の男性に結婚を拒否され、中絶のために盛った硫黄で命を落とした。貧困と孤独の中で死んでいった母の運命をドライヤーは18歳のときに知った。そして母を死へと追い詰めた男性社会の欺瞞と抑圧は、その後のドライヤー作品の主題として繰り返し描かれることになった。男性主義の暴走としての魔女狩り(じっさいには男性の犠牲者もいたとされるが)は、ドライヤーにとって魅力的なテーマだったのかもしれない。
村の牧師館には初老の牧師アプサロンと年若い妻アンネ、そしてアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。情熱と欲望を持て余したアンネは若く快活な義理の息子に心惹かれ、マーチンもまた若い母親の妖しい魅惑にのめりこんでいく。こう書くと、本作が驚くほど通俗的でエロティックな筋書であることがわかる。禁忌的な欲望のドラマと濃い陰影をたたえた画面は、同時期のアメリカ映画で隆盛するフィルムノワールに通じるものがある。
魔女狩りという暴力的な狂気を背景に、田舎の素朴な牧師館にはただならぬ重苦しさが充満する。振り子時計が冷たくときを刻む音の中で、くっきりとした陰影に縁どられ、彫刻のようにみえる俳優たちが厳格な芝居を織りなしていく。魔女裁判や拷問、処刑の様子も『裁かるるジャンヌ』よりもはるかに冷酷な手つきで描かれ、壮絶だ。対してアンネとマーチンが禁じられた逢瀬を重ねる小川や野原は自然光と甘い旋律によっておおらかな官能をはぐくむ。『怒りの日』は、このふたつの世界によって構成されているといっていい。きびしく排他的な宗教観と若く情熱的な欲望との間で引き裂かれる人々の物語、といえるだろうか。ふたつの世界はしだいにテンションを高めていき、嵐の夜に劇的な衝突を見せる。観客は文字通りの「魔」を目の当たりにし、戦慄することになるのだが、照明、音響、カメラワークから登場人物の演技に至るまですべてが緻密に設計されており、息を殺すほかない。つづいて小川で演じられるアンネとマーチンの最後の逢瀬もまた、それまでとは全く違った風景を見せ、ふたりの中で何かが決定的に変化してしまったことを暗示する。
『怒りの日』において本当に魔女が存在したかどうかは、最後まであいまいなままだ。アプサロンが突然死したのは、妻と息子の不貞を知ったことによるショック死なのか、それとも本当に魔女の呪いなのか。マーチンがアンネに惹かれたのも、若い男女のごく自然ななりゆきなのか、それともアンネの魔性によるものなのか。アンネを演じたリズベット・モビーンの「燃えるような瞳」は、そのどちらも一定の説得力を持たせている。むろんドライヤーは意図してあいまいさを残している。原作の戯曲はもっとはっきりとアンネを魔女として描いているからだ。
しかしこうしたあいまいさがあるからこそ、不寛容で抑圧的な世界と対峙し、欲望し、やがては異形の者として敗れ去っていくアンネの物語は、魔女狩りという特殊な悲劇を超えた普遍性を帯びて、私たちを戦慄させる。『怒りの日』が封切られた1943年、すでにドイツに占領されていたデンマークでも公然としたユダヤ人狩りが開始された。魔女狩りの物語を通して、ナチスのユダヤ人政策に抵抗する意図はおそらくドライヤーにはなかった。ただ同時期にアメリカ映画で起きたフィルム・ノワールの潮流と同じく、当時のデンマークがおかれた陰鬱な気分が色濃く作品に反映していることは間違いないだろう。スタッフはおろか、監督名すらクレジットされなかったこの映画は、ドライヤーと同じく抑圧と不寛容の時代が産み落とした名もなき私生児だったのかもしれない。そしてこのどうしようもないほど暗く、呪われた映画が、今も私たちの心を揺さぶるのは、世界が相変わらず抑圧と不寛容に満ちている証拠なのだ。




第3位『狩人の夜』(チャールズ・ロートン)
The Night of Hunter/1955/US








第4位『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)
The Social Network/2010/US




第5位『幕末太陽傅』(川島雄三)
Sun in the Last Days of the Shogunate/1957/JP
毎年お正月になると『幕末太陽傳』見るのがルーチン化している。見ている間、「これが世界でいちばん面白い映画だ」と思わせるエネルギーに満ちている。「居残り佐平次」を主軸に古典落語のモチーフが織り込まれ、役者の台詞回しや振る舞いも落語を意識した小気味の良さが目立つ。
左幸子と南田洋子のチャキチャキした女性像も魅力的だし、芦川いずみのかれんな存在感も素晴らしい。石原裕次郎は、幕末の太陽族を演じるセルフパロディにより適度な客体化に成功。
そして何はなんともフランキー堺である。口八丁手八丁であれよあれよとのし上がり、男も女も惚れさせ、頼られる。石原裕次郎に刀を向けられても、とんちとユーモア、度胸とハッタリで渡り合い、庶民の反骨と気概を語りもする。真の意味での「かっこいいとは、こういうことさ」って感じ。そのバイタリティゆえに、時折死の匂いが通り過ぎたときの真顔にどきっとする。
当初考案されていた通り主人公が現代の品川を走り抜けるラストだった。実現しなかったが、夭折の天才が残した本作は文字通り死と時を超えた不朽の名作となり、作品そのものがラストシーンの哲学とメッセージを体現してしまった。





第6位『暗殺の森』(ベルナルド・ベルトルッチ)
Il Conformista/1970/IT










第7位『ローラ』(ジャック・ドゥミ)
Lola/1961/FR

『ローラ』はジャック・ドゥミ監督の長編第1作だ。ドゥミと聞くと『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』に代表されるめまいがするような色彩感覚と甘いメロディーに彩られたミュージカル映画を思い起こす人も多いとおもう。『ローラ』はモノクロ映画でミュージカルでもないが、港町、水夫、シングルマザー、踊り子などドゥミ作品における主要なモチーフは、ほぼすべてそろっている。今でこそ国内でソフト化され、上映される機会も増えたが、完成から長い間、日本で『ローラ』を見るチャンスはごく限られていた。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と評したジャン=ピエール・メルヴィルをはじめ、名だたる映画作家が贈る賛辞を聞いては、想像し、恋い焦がれるほかない「夢のフィルム」だった。日本での初公開は1992年だが、当時7歳の私はもちろん見ていない。
私が初めて『ローラ』を見たのは2007年3月20日。渋谷のユーロスペースだった。あの夜を今も鮮烈に覚えている。胸をかきむしるような切なさにとりつかれ、ふらふらと映画館をあとにした。電車に乗っている間も、アパートに帰ってからも、ベッドに入ってからも、美しいナントの風景が、愛すべき登場人物たちが、ベートーベンのシンフォニーが、頭から離れない。心を盗まれるとは、きっとああいうことを言うのだろう。映画には、人の生き方を決定的に狂わせてしまう魔力があるのだと私は初めて突きつけられた。それはもう、ほとんど恋としか言いようがなかった。
すでにあの夜から18年が過ぎてしまった。映画の中でローラ(アヌーク・エーメ)が、恋人を待ち続けた7年間の歳月を、もう2周以上も過ぎてしまったことになる、あの夜の陶酔とフィルムへの恋心が、私の中で色あせることはなかった。
ただ、この映画についてまともな文章は書けなかった。ラウール・クタールのカメラがとらえた光のように、『ローラ』のうつくしさははかなく、つかみどころがない。だから『ローラ』についてつづると、いつだってやたらと感傷的な、できの悪いラブレターのようにしかならなかった。
『ローラ』はドゥミのふるさとでもある港町ナントを舞台に3日間の人間模様を描いた群像劇だ。初恋の相手を待ち続けるシングルマザーの踊り子ローラを中心に、複数の登場人物が交わり、あるいは交わることなく物語を織りなしていく。
冒頭、海岸沿いの道路に白いオープンカーが滑り込み、タイトルが現れる。ここで流れる短く美しい旋律は、ドゥミが敬愛する映画監督マックス・オフュルス『快楽』からの引用である。タイトルクレジットのかたわらには律義に「マックス・オフュルスに」と記されている。そもそもローラという名前じたいがオフュルスの代表作『歴史は女で作られる』(原題『ローラ・モンテス』)からの取られているとの説もあるが、実際は『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)からのようだ。
いずれにせよヌーヴェルヴァーグ一派の例にもれず、ドゥミもまた愛する映画へのオマージュを映画のいたるところに忍ばせている。ただ『ローラ』が真にすぐれているのは、こうしたオマージュが自然に物語に溶け込み、教養主義におちいっていない点だ。『ローラ』を見るために、知識はいらない。必要なのは誰かをはげしく恋い焦がれながら、敗れ去った苦い記憶だけだ。
ドゥミ作品のなかでは、多くの人々がすれちがいを繰り返す。『ローラ』はわけても、めまぐるしいすれちがいが繰り広げられる1本だ。冒頭の数分間だけで、すでに幾多のすれちがいが描かれている。オープンカーの男、アメリカの水兵フランキー、そして主人公のローラン・カサール。3人の男はおのおのがローラという1人の女性を介して関わりを持ちながらも、互いに言葉を交わす瞬間はついに訪れない。劇中で彼らは何度もすれちがうが、互いの存在をほとんど意識すらしていない。観客だけが彼らの「近くて遠い」ふしぎな距離感を目撃することになる。自分のまわりでも、同じようにすれちがい、出会わなかった人がいるのだろうか。そんな想像をかき立てる。「出会わない運命」を丹念に描きつくしているからこそ、ドゥミの映画のなかの「出会い」は運命的で、息がとまるほどにドラマチックにみえる。
主人公のローラン・カサールはいかにも頼りないダメ男である。登場早々に寝坊した上に、会社の上司には「読書していた」と悪びれもせず遅刻の言い訳をし、当然のようにクビになる。そのくせ口だけは達者で、行きつけのカフェで女主人と常連客を相手に理屈ばかり並べている。ジャック・ベッケル監督の傑作脱獄映画『穴』で知られるマルク・ミシェルが、無気力でペシミスティックな青年を好演している。物語が進むにつれ、彼の心に暗い影を落とす戦争の傷跡が明らかになる。「たった一人の友達だったポワカールも殺された」というせりふはもちろん、ゴダールの『勝手にしやがれ』への目配せだ。自暴自棄になったカサールはポワカールと同じく犯罪に手を染めかけるが、初恋の相手ローラ(本名はセシル)との再会をきっかけに、生きる希望を見出していく。
この映画にはローラのほかにもうひとりのヒロインがいる。カサールが書店で出会う14歳の少女セシルだ。ローラの本名と同じ名前であり、若き日のローラの生きざまが重ねられている。ローラの運命をなぞるように、セシルはアメリカの水兵フランキーと出会い、恋をする。フランキーとセシルが祭りで遊ぶ場面は本作のハイライト。不可解だけど、あらがうことのできない恋の魔法を、これほどみごとに表現した映像を私は知らない。高揚感と官能に上気したセシルの表情。バッハの平均律クラヴィアのメロディーが流れる中、スローモーションで2人の姿をとらえたシーンの、とろけるような甘さ。少女が恋に落ちた、まさにその瞬間を生け捕っている。
ドゥミにとって14歳という年齢も重要だ。ローラが初恋の相手ミシェルと初めて出会ったのも14歳とされている。ローラとカサールの年齢は劇中では語られないが、演じた俳優は、ともに当時29歳。二人の再会は15年ぶりというから、カサールがローラに恋をしたのも14歳のときかもしれない。ちなみにドゥミが「生涯の1本」と崇拝し、本作でもオマージュをささげている『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督)に初めて出合ったのも14歳だ。ドゥミが「14歳の初恋」にこだわるのは、彼自身が映画と恋に落ち、取りつかれた年齢だったからなのかもしれない。
『ローラ』は、初恋をあつかった映画だ。「どうして初恋は特別なのか」。少女セシルの問いにカサールは「初恋は一度きりの特別なもので、二度とめぐってこないから」と答える。多くの人にとって初恋は、生まれて初めての相互理解への敗北だ。挫折は、いつまでも心の片隅に居すわり、私たちを縛り、傷つけ続ける。それなのに、たびたび記憶から取り出しては未練がましい後悔だけが積み重なっていく。まるで呪いのように、人々の心に棲みつく初恋という名の幻想。その甘美さと残酷さの両面を引き出したからこそ、『ローラ』は特別な映画になった。
待ち続けた恋人がついに現れ、物語はハッピーエンドを迎える。だが、それはカサールの恋が敗れたことを意味する。初恋の「勝者(ローラ)」と「敗者(カサール)」が最後にすれちがい、映画は幕を閉じる。ハッピーエンドの充足感とともに、ほろ苦い感傷が見る者の心に押し寄せてくる。振り返ってカサールを見送るアヌーク・エーメのクローズアップが美しい。ディズニー映画のおとぎ話よろしく、ローラにかけられた呪いは解けた。だがそれが彼女にとって幸せなことだったのか。憂いを帯びた表情は、きびしい現実を予感させる。
じっさいドゥミは別の映画でカサールとローラのその後を描いた。個別の小説のなかに共通のキャラクターを再登場させ、横糸を編むことで、世界全体を描こうとしたバルザックの「人間喜劇」と同じ手法を、ドゥミもフィルモグラフィーのなかで実践していく。カサールは『シェルブールの雨傘』で宝石商として成功した姿を見せ、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインと結婚する。皮肉にも今度が自分が別の男の恋を打ち砕く存在になっていた。ローラは『モデル・ショップ』で夫に棄てられ、いかがわしい店のモデルに身をやつす顛末が語られる。
ドゥミの映画は一見して明るく空想的だが、その裏側には暴力や戦争といったきびしい現実が潜んでいる。人々はしばしば運命にほんろうされ、引き裂かれる。ある者は自暴自棄になり、ある者は幻想を抱きつづける。だがドゥミは全ての人々にひとしく、優しいまなざしをそそぐ。そして、最後は必ず希望が勝利する。打ちひしがれながらも希望を捨てないローラと接し、カサールは気づく。「幸せを願うだけで、すでにちょっとだけ幸せなんだ。人生は美しい」。このせりふにドゥミの人生賛歌が凝縮されているのではないか。そう、『ローラ』のなかには、幸せを願いつづける美しいひとびとが、何人も登場する。希望を抱き続けるおろかで美しいひとびとがいる限り、ヌーヴェルヴァーグの真珠は輝きを失わない。




