“Gish Note”はDieSixxの映画評だけをまとめたブログです。

『怒りの日』(カール・テオドア・ドライヤー)

Vredens Dag/1943/DK

 2008年、国内の上映権切れに伴って、カール・ドライヤー監督の5本の長編映画が最終上映された。『裁かるるジャンヌ』(1927)、『吸血鬼』(1932)、『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルーズ』(1964)という、今考えても垂涎のラインアップである。だが、当時の私は『怒りの日』の衝撃と興奮にすっかり取りつかれ、ほかの作品についてはほとんど印象がないというありさまだった。以来『怒りの日』は、私の浅薄な映画体験の頂点に君臨し、心の中で鈍く、暗い輝きを放ち続けてきた。
 『怒りの日』はキリスト教最大の汚点ともいえる魔女狩りを題材に取った映画だ。ドライヤーは『裁かるるジャンヌ』ですでに魔女狩りをあつかっているが、本作は実在の魔女を描いた戯曲「アンネ・ペータースドッテル」を原作にしている。『裁かるるジャンヌ』と比べ、善と悪、聖と俗の線引きがよりあいまいになっていて、相互が複雑に絡み合っている。明確なモラルの提示はされないし、歴史の罪を告発しようとする姿勢も皆無だ。後世の人間が歴史を振り返り、「後出しじゃんけん」で批評を加えるような傲慢さからドライヤーは距離を置いている。
 ドライヤーという作家を論じるために、彼の生い立ちについて触れなくてはならない。カール・ドライヤーは1889年、裕福な地主が女中を身ごもらせた私生児として生まれた。彼の母は地主一家の命令でデンマークにわたり、コペンハーゲンで秘密裏にカールを産んだのだった。カールはやがて厳格なドライヤー家に引き取られたが、その少年時代は決して幸福なものではなかったようだ。17歳で家を出たカールが養家を訪ねることは二度となかったからだ。はなればなれになった実母はさらに苦難の道を歩んだ。カールを産んだ後にスウェーデンに戻り、別の男性の子どもを妊娠したが、相手の男性に結婚を拒否され、中絶のために盛った硫黄で命を落とした。貧困と孤独の中で死んでいった母の運命をドライヤーは18歳のときに知った。そして母を死へと追い詰めた男性社会の欺瞞と抑圧は、その後のドライヤー作品の主題として繰り返し描かれることになった。男性主義の暴走としての魔女狩り(じっさいには男性の犠牲者もいたとされるが)は、ドライヤーにとって魅力的なテーマだったのかもしれない。

 村の牧師館には初老の牧師アプサロンと年若い妻アンネ、そしてアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。情熱と欲望を持て余したアンネは若く快活な義理の息子に心惹かれ、マーチンもまた若い母親の妖しい魅惑にのめりこんでいく。こう書くと、本作が驚くほど通俗的でエロティックな筋書であることがわかる。禁忌的な欲望のドラマと濃い陰影をたたえた画面は、同時期のアメリカ映画で隆盛するフィルムノワールに通じるものがある。
 魔女狩りという暴力的な狂気を背景に、田舎の素朴な牧師館にはただならぬ重苦しさが充満する。振り子時計が冷たくときを刻む音の中で、くっきりとした陰影に縁どられ、彫刻のようにみえる俳優たちが厳格な芝居を織りなしていく。魔女裁判や拷問、処刑の様子も『裁かるるジャンヌ』よりもはるかに冷酷な手つきで描かれ、壮絶だ。対してアンネとマーチンが禁じられた逢瀬を重ねる小川や野原は自然光と甘い旋律によっておおらかな官能をはぐくむ。『怒りの日』は、このふたつの世界によって構成されているといっていい。きびしく排他的な宗教観と若く情熱的な欲望との間で引き裂かれる人々の物語、といえるだろうか。ふたつの世界はしだいにテンションを高めていき、嵐の夜に劇的な衝突を見せる。観客は文字通りの「魔」を目の当たりにし、戦慄することになるのだが、照明、音響、カメラワークから登場人物の演技に至るまですべてが緻密に設計されており、息を殺すほかない。つづいて小川で演じられるアンネとマーチンの最後の逢瀬もまた、それまでとは全く違った風景を見せ、ふたりの中で何かが決定的に変化してしまったことを暗示する。

 『怒りの日』において本当に魔女が存在したかどうかは、最後まであいまいなままだ。アプサロンが突然死したのは、妻と息子の不貞を知ったことによるショック死なのか、それとも本当に魔女の呪いなのか。マーチンがアンネに惹かれたのも、若い男女のごく自然ななりゆきなのか、それともアンネの魔性によるものなのか。アンネを演じたリズベット・モビーンの「燃えるような瞳」は、そのどちらも一定の説得力を持たせている。むろんドライヤーは意図してあいまいさを残している。原作の戯曲はもっとはっきりとアンネを魔女として描いているからだ。
 しかしこうしたあいまいさがあるからこそ、不寛容で抑圧的な世界と対峙し、欲望し、やがては異形の者として敗れ去っていくアンネの物語は、魔女狩りという特殊な悲劇を超えた普遍性を帯びて、私たちを戦慄させる。『怒りの日』が封切られた1943年、すでにドイツに占領されていたデンマークでも公然としたユダヤ人狩りが開始された。魔女狩りの物語を通して、ナチスユダヤ人政策に抵抗する意図はおそらくドライヤーにはなかった。ただ同時期にアメリカ映画で起きたフィルム・ノワールの潮流と同じく、当時のデンマークがおかれた陰鬱な気分が色濃く作品に反映していることは間違いないだろう。スタッフはおろか、監督名すらクレジットされなかったこの映画は、ドライヤーと同じく抑圧と不寛容の時代が産み落とした名もなき私生児だったのかもしれない。そしてこのどうしようもないほど暗く、呪われた映画が、今も私たちの心を揺さぶるのは、世界が相変わらず抑圧と不寛容に満ちている証拠なのだ。

『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ)

Carrie/1976/US

 私が通っていた中高一貫の私立校では、中学までが男子校で、高校に上がると少数の女子が入り共学化した。私は高校進学後も男子クラスだったので、結局女子と会話ができたのは中高6年間で数えるほどしかなかった。こうした経験はその後の私の人生に少なからず影響したようにおもう。自分の性格を棚に上げるつもりもないし、責任を転嫁するわけでもないけど、女性と会話するのにはいまだ苦手意識がある。だけれどもっと厄介だったのは、同じ男性への不信感が身についてしまったことだった。3年間異性から隔絶していた男たちは急に女を意識して、洗面所で頻繁に髪の毛をセットしたり、制服をだらしなく着崩したりし始めた。女子部員の多い吹奏楽部の希望者が増加し、仲の良かったバスケ部員たちはマネージャーの女の子をめぐって仲間割れした。そうした同級生の姿は、率直に言って見苦しかった。私も人並みに女子に興味があったし、話をしてみたくもあったけど、こんなに醜く、あさましい「求愛競争」に加わるなら死んだほうがましとさえおもった。
 だから、高校の夏休みにレンタルビデオで『キャリー』を見たときの胸がすくような快感は忘れられない。学校ではいじめられてばかりで特別あつかいされたことなんて一度もない。家ではキリスト教福音主義者の母親による息が詰まるような抑圧が待っている。そんなキャリー・ホワイトが一瞬だけつかみかけたささやかな青春の輝きも、クラスメートの心ないいたずらで無残に奪われてしまう。封じ込めていた力を解放して、キャリーはプロムを血祭りにする。血まみれで目を見開き、鮮やかな炎の背にしたキャリーが、うんざりするほど醜い学校空間に復讐する女神に見え、私は心のなかで快哉をさけんだ。
プロムは男女がつがいをつくり、最も魅力的なカップルをたたえる。こんなくだらない風習が日本にはなくてよかったと胸をなで下ろしたものだが、日本の高校だっておのおのの性的魅力や体験を、試し、比べ、競い合う理不尽な世界におもえる。デ・パルマは、まるで自然界の動物たちのようなきびしい「性の戦場」としてハイスクールを描いている。

 バレーボールに興じる女子高生たちを俯瞰でとらえたカメラが、ひとりの少女へと近づいていく。おどおどとしたそぶりの少女は案の定しくじり、クラスメートからののしられる。あわれな主人公の境遇を示す短いオープニングシーン。続くセカンドショットのイメージもまた鮮烈だ。ピノ・ドナッジオの流麗な旋律にのせて、ロッカールームで着替える少女たちをスローモーションでとらえていく。シャワーの湯気の中から浮かび上がってくる裸の少女たち。ルノワールの絵画のように生々しい官能が画面に充満する。その奥でシャワーを浴びるキャリー・ホワイト(シシー・スペイセク)のからだは青白く貧相で、いかにも魅力に欠ける。だがキャリーのふとももを一筋の血がつたいおちたことで、彼女もまたきびしく、醜い「性の競争」に加わらなくてはならないことを告げる。自分の経血に取り乱したキャリーを、担任のコリンズ先生(ベティ・バックリー)が落ち着かせようとするが、カメラは先生の乳房をクローズアップし、2人の性的な対比を強調する。実際の役者は撮影時、2歳しか変わらなかったわけだが。

 キャリーが初潮すら知らないほど性知識に乏しいのには理由がある。母親マーガレット・ホワイト(パイパー・ローリー)が女性の成長(性徴)を罪とみなし、まともな性教育をしてこなかったからだ。『ハスラー』(1961年、ロバート・ロッセン監督)から25年ぶりハリウッドに復帰したパイパー・ローリーはこの狂信的な母親役でふたたび話題をさらった。50年代にはダグラス・サーク監督のコメディ映画(『突然の花婿』『ぼくの彼女はどこ?』=いずれも1952年=)にも出演。ここでは逆に欲深い家族に翻弄される娘を演じている。マーガレットが自宅に戻る場面では古くなった「売り家」の看板が隣に立っていて、ホワイト家が人が地域から孤立していることをうかがわせる。
 キャリーをいじめていたスー(エイミー・アーヴィング)は偶然、キャリーの特殊な家庭環境を知ることになる。反省し、ボーイフレンドのトミー・ロス(ウィリアム・カット)にキャリーをプロムに誘うように提案する。一方、いじめの主犯格だったクリス(ナンシー・アレン)はキャリーへの逆恨みを募らせ、ボーイフレンドのビリー・ノーラン(ジョン・トラボルタ)と共謀し、復讐計画を練る。デ・パルマは、映画の中のハイスクールを一種の女系社会として描く。男子は女子の命令にしたがう傀儡に過ぎない。
 キャリーがトミーの招待を受け入れると、映画は学園青春ものへと大胆に舵を切る。たどたどしい手つきでグロスの色をためすキャリーの姿や、パーティーへ着ていく服を選ぶトミーたちの様子は、この映画がホラーであることをしばし忘れさせてくれる。トミーの友達がボンクラっぽいところもいいんだよね。いじめっ子側のノーマ(P・J・ソールズ)がトレードマークのキャップを律義にパーマ機の上にちょこんと載せているのもくすりとくる。
 わけても私が気に入っているのは、トミーとキャリーがプロム会場に到着した場面だ。緊張したキャリーは意を決して車のドアを開けるが、何かを思い出してすぐに閉じてしまう。祈るような面持ちで、じっと待っていると、運転席から回り込んだトミーが助手席のドアを開けてくれる。期待と不安が入り交じる乙女心をシシー・スぺイセクがみごとな演技で表現している。トミーが開けたドアはキャリーにとって長い間閉ざされていた他者への扉だ。あまり言いたくないけど、リメーク版『キャリー』(2013年、キンバリー・ピアーズ監督)にどうしても物足りなさがあるのは、こういうディテールなんだよなあ…。

 それにしても驚嘆すべきはキャリーの変貌ぶりである。本当にプロムの会場で最も美しい女性に見える。はじめはスーの命令でいやいや付き合っていたトミーも、だんだんとキャリーに惹かれ、ダンスをしながらふたりはキスを交わす。甘くとろけるようなメロディときらきらしたライティング。ふたりの周囲をぐるぐると回るカメラはもちろんデ・パルマ監督が心酔する『めまい』(1958年、アルフレッド・ヒッチコック監督)へのオマージュだ。文字通りめくるめく幸福の瞬間に、このまま、映画が終わってしまえばいいのにとさえおもえる。
 「ベスト・カップル」の投票用紙で自分たちの名前に印をつけるキャリー。クローズアップになった印は「十字架」として象徴的に映し出され、照明が赤く染まる。ここから画面も、音楽も、ふたたび恐怖映画に転調し、映画史に刻まれるクライマックスが幕を開ける。流れるようなカメラワークと計算し尽くした編集、俳優たちの立ち回りとドナッジオのスコアが絡み合い、突き進んでいく。この瞠目すべきシークエンスに、デ・パルマは撮影に2週間、編集に4週間をかけ、心血をそそいだ。「デ・パルマ・ギミック」とでも呼びたくなる精密機械のようなクライマックスの演出方法は、その後の彼の作品群に引き継がれていく。
 ノーマが投票用紙を集め、ボーイフレンドとキスするふりをして、あらかじめ準備した別の投票用紙とすり替える。それを審査員の先生たちに手渡し、ステージ下に隠れたクリスとビリーに合図を送る。カメラがステージ裏に移動するとスーがやってきて会場をのぞきみる。今度はスーの手元にあるロープをたどってカメラが上昇し、ステージの上に仕掛けられたバケツをとらえる。司会の生徒がベストカップルの名前を読み上げると、カメラはバケツから、トミーとキャリーに視線を移す。この間はすべてが切れ目のないワンカット。巧妙かつ精緻なカメラワークが、逃れられないわなと重なり、切実さを増す。ステージ上で拍手喝さいをあび、幸せをかみしめるキャリー。「復讐のとき」を待ちわびてロープを握りしめるクリス。仕掛けに気がつくスー。会場にいるはずのないスーの姿をみとめ、不審がるコリンズ先生。それぞれの思惑と視線が編みこまれ、スローモーション映像とストリングスの演奏が、緊迫感を高めていく。

 そして、ついにその瞬間が訪れる。血まみれになったキャリーの頭の中には「みんなの笑いものになる」という母親の予言がこだまし、さげすまれてきたみじめな記憶がフラッシュバックする。キャリーを思っていたコリンズ先生やスーも残酷なわなに貢献してしまった皮肉。デ・パルマお得意のスプリットスクリーンで皆殺しの地獄絵図が展開する。自動車でキャリーをひき殺そうとしたクリスとビリーも返り討ちにあい爆死。
 呆然として家にたどり着いたキャリーはようやく正気に戻り、バスルームで血を洗いながら涙を流す。圧倒的な破壊の力を見せてもなお、彼女はか弱く、孤独な存在に過ぎない。悲劇はそれだけに終わらなかった。「ママの言う通りだった」と母親にすがりつくキャリーの背中に、マーガレットはナイフを突き立てる。母親もまた哀しい性の犠牲者であった。キャリーのテレキネシスではりつけにされ、聖セバスチャンの殉教よろしく快楽に身をふるわせながら絶命する。キャリーはそのなきがらを抱きしめ、今となってはたったひとつの居場所となってしまった懺悔室で心中するのだった…。
 惨劇から唯一生き残ったスーがトラウマと罪悪感に苦しみ続けるところで物語は終わる。ラストのショッカー演出は『13日の金曜日』(1980年、ショーン・S・カニンガム監督)など多くのホラー映画で模倣された。当然、私も死ぬほどおびえた。でも単に驚いただけではないのだ。映画を見ながらすっかりキャリーに感情移入していた私が、この瞬間に気づかされた。私はキャリーのようないじめられっこではなかった。むしろその逆だったのだ。みなから無視され、からかわれ、いじめられていたクラスメートを、私は助けなかった。一緒になって笑いもした。友達にねつ造ラブレターを送り付ける計画に加担したことさえある。にせのラブレターを受け取った彼が小躍りするのを見たとき、私は笑っていた。
 プロム会場をつつむ業火に、私もまた焼かれるべきだった。そして悪夢にうなされるスーと同じく、取り返しのつかない過ちに苦しむべきだった。何度見たって映画の結末が変わらないように、私の後ろめたい青春もやり直すことはできない。できることは、この孤独な少女の物語をくり返し見ることだけ。そして、いつも思い出す。すべてが醜く、くだらなく見えた学校を。周囲を見下すことしかできなかったおろかな十代を。ひきょうな私が手を差し伸べなかった、今となっては名前すらも忘れてしまったキャリーたちを。

『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー)

The Texas Chain Saw Massacre/1974/US

あまり怖いものが得意ではない恋人が『悪魔のいけにえ』の爆音上映に付き合ってくれた。「ほんとうに大丈夫?」と何度か念押ししていたけれど、見終わったあとは案の定青ざめた表情で「怒らないで聞いてほしいんだけど…苦手」と肩を落とした。そうだよなあ、そうなるよなあ。でもなんだかはっとさせられもした。くりかえし見ているうちに、すっかり忘れてしまっていたけれど、私も初めてこの映画を見たとき、安酒を飲み干したような激しい悪寒と吐き気に襲われたのだった。『悪魔のいけにえ』の今日的な評価とか映画史的な位置づけなど知ったこっちゃない人間の、ごくまっとうな反応に触れたことで、この映画がほんらい持っている「毒」を思い出した。
 『悪魔のいけにえ』の魅力を伝えることは難しい。「いい映画」とはいえないし、むしろ「わるい映画」と言ったほうがいい。私も好きな映画について、へたくそなりに言語化しないと気が済まないたちだけど、不快な金切り声と野蛮な暴力が吹き荒れるこの映画を前に、お行儀のいいモラルやロジックは無効化してしまう。それなのに、この映画が心に残した傷跡は、いつまでもズキズキとうずき、うみとなり、だけれどそのうち忘れられない「映画体験」へと発酵していた。
 酷暑につつまれた真夏のテキサスで、何者かが墓を暴き、遺体でオブジェをつくる異常な事件が頻発していた。太陽の表面爆発をとらえたタイトルバックにラジオのニュース音声が重なる。石油施設の爆発、蔓延する伝染病、若者の自殺、警官への暴行…といやなニュースばかりが伝えられる。焼けつくようなアスファルトの上でアルマジロが野垂れ死に、そのうしろを一台のバンが通り過ぎていく。あまりの暑さにアメリカ全体に狂気と暴力が充満しているような強烈なオープニングで、『悪魔のいけにえ』は幕を開ける。泥沼化するベトナム戦争を背景に、じっさいこの時期のアメリカは狂っていた。

 バンには、サリー、ジェリー、フランクリン、カーク、パムの4人の若者が乗り組み、かつてサリーが住んでいた家へと向かっている。サリーとジェリー、カークとパムは恋人同士で、車いすに乗ったフランクリンはサリーの弟だ。16ミリフィルムの粒子の粗い画面から、せまい車内に立ち込める人いきれと汗のにおいが立ちのぼってくるようだ。ほどなくして5人はさらなる悪臭に顔をゆがめる。ハイウェイの脇には、牛を殺し、食肉へと加工する工場が建っていた。屠られる牛たちの糞尿とよだれ。まがまがしい「死のにおい」がバンのなかに侵食してきたとき、若者たちは泥沼のような悪夢にはまりこんでいく。きちがいじみたヒッチハイカーに遭遇し、ガソリンを使い果たし、川の水は涸れ、不自由な巨体を持て余してフランクリンが不満をたれながす。暑さと渇きが画面をむしばみ、じりじりとした苛立ちが募っていく。
16ミリフィルムの質感のせいか、プリミティブで粗削りな印象があるが、くり返し見ていると、その画面構成や編集や音響設計は細部まで考え抜かれていることがわかる。『悪魔のいけにえ』は新鋭だったフーパーの若い才能と疾走感がほとばしっているが、決して勢いだけで作られたわけではないようにおもう。レザーフェイスの初登場シーンは、撮影、編集におけるフーパーの天才が味わえる名場面だ。極限まで煮詰めた狂気と暴力が一気に噴き出し、映画が加速度的にドライブしていく。

 ガソリンを譲ってもらうため、カークとパムは白い家を訪ねる。うなりを上げる自家発電機、木にぶらさげられた奇妙なオブジェ、乾いた音を立てて転がり落ちる人の歯。カークが玄関から中をのぞくと、奥の部屋の壁に牛の頭蓋骨が飾られている。平凡な家のすきまから、完全にヤバいものがだだ漏れている。観客からすれば、もう明らかに「入っちゃダメ」って感じがしてる。それなのにカークは家の中に足を踏み入れてしまう。廊下でつまづいたとき、ほんとうに突然、なんの脈絡もなく「やつ」が登場する。画面がカークの主観ショットに切り替わり、カメラが肉屋のエプロンを身に着けた大男をゆっくりと見上げる。映画史を代表する殺人鬼、レザーフェイスの初登場は存外そっけない。次の瞬間、単純作業のようなすみやかさで、カークの脳天にハンマーが振り下ろされる。昏倒し、けいれんを起こすカークに、これまた冷静な手つきでとどめの一撃を食らわせる。この身もふたもない手際のよさ。人を殺すというより、屠るような即物性に戦慄しながら、私たちは理解する。ああ、この大男にとって私たちは人間ではなく、一匹の動物…屠られる肉塊にすぎないのか、と。

 パムもまた「魔の家」へと引き寄せられていく。ブランコの下をくぐりぬけ、パムの背中を追い続けるカメラが、夏空と白い家を映し出す。劇中で最もおそろしく、うつくしいショットのひとつだ。私たちもまた、この家の磁場から逃れられないような錯覚に陥るし、家の方からこちらに迫ってくるようにも見える。抜けるような夏の空も、牧歌的な白い家も、つい数分前とは決定的に違ってまがまがしく映る。家に足を踏み入れたパムは、おびただしい人や動物の骨でつくられた異常な芸術作品を目にする。美術のロバート・A・バーンズが作り上げたこの部屋は、おぞましくも独自の美意識に貫かれている。パムはすぐにレザーフェイスにつかまり、また家畜のように食肉用のフックにかけられる。目の前で恋人がチェーンソーで解体されていく。『悪魔のいけにえ』には鮮血や切り株といった直接的なゴア表現はほとんどないが、見る者の痛覚を刺激する。「見せない効果」を熟知した恐怖映画の正統なマナーにのっとっている。
 夕暮れ時にはジェリーが白い家を訪ね、犠牲になる。ジェリーを撲殺したあと、窓際に座って頭を抱えるレザーフェイスは、あきらかに途方に暮れている。「なんで俺がこんな目に」とでも言わんばかりだ。レザーフェイスの意外な一面があらわになり、映画全体が奇妙なユーモアを帯び始める。この場面を契機に、物語の主役は5人の若者たちから、得体の知れない殺人一家にシフトしていく。じっさいすぐ後にフランクリンも殺されてしまうし、サリーはほぼ最後まで絶叫し、逃げ回っているだけだ。

 狂人は狂人なりの倫理観や哲学、常識の中で生きている。レザーフェイスはサリーの絶叫にびっくりしたり、ドアを壊したことを兄のコックに叱られたりと、ほとんど臆病者のようにも見える。人皮マスクや服装も、肉屋スタイルだけではなくて、料理をするときは母親風、食事をするときはスーツといった具合に、彼なりのこだわりをうかがわせる。フランクリンが使っていた車いすが、きれいに畳まれてキッチンに置かれているのもいい。片付けている姿を想像するとなんだかほっこりした気持ちになる。『悪魔のいけにえ』が色あせない魅力を放っているのは、レザーフェイスをはじめとする狂った殺人一家が、どこか愛すべき人間くささをまとっているからだとおもう。
 細かいしぐさやせりふ、小道具から一家の「人間性」が垣間見え、おそろしいと同時に、そこはかとなく可笑しい。この映画をコメディとして見る人もいるだろうし、じっさい作り手も意図的に笑いの要素を取り入れていた。結果、映画はどんどん悪ノリの度合いを増し、恐怖と笑いがせめぎあう狂ったパーティーへとなだれ込んでいく。切り傷からサリーの血をチュウチュウと吸いながら爺様が軽快に踊りだす。恐怖が限界を超え、気絶したサリーが目を覚ますと、干し首のランプやニワトリの頭で飾られた異常な食卓で一家が食事していた。ふたたび絶叫するサリーと歓喜の声を上げる一家。サリーの目の前にはごていねいに食器が並べられている。レザーフェイスが準備したのかな、と考えるとやっぱりちょっと笑える。

 隙を突いて逃げ出したサリーは窓を突き破り、ついに家の外に脱出する…!文字どおり目が覚めるような鮮烈な場面転換。夜が明けて、悪夢が終わろうとしている。サリーを追ってきたヒッチハイカーはトレーラーに豪快に轢殺され、レザーフェイスはチェーンソーで自分の太ももを切って悲鳴をあげる。命からがら逃げ延びたサリーは、血まみれでけたけたと笑い続ける。彼女もまた一家の狂気にからめとられてしまったのだろうか。そして、映画史に刻まれるラストシーンがくる。朝日をバックにチェーンソーを振り回して踊るレザーフェイスの映像が唐突に暗転する。ようやく訪れた暗闇と静寂の中で、私たちは安堵のため息をつく。だけれど、脳裏に焼き付いた83分の悪夢と、仕込まれた毒からは逃れることができない。

『キャット・ピープル』(ジャック・ターナー)

"Cat People"1942/US

 RKOスタジオが、演劇界の風雲児オーソン・ウェルズを招き、製作した2本の映画(『市民ケーン』、『偉大なるアンバーソン家の人々』)は映画史上の財産にはなったが、肝心かなめの撮影所の経営状況を救うことはできなかった。それどころか莫大な予算といたずらに長い撮影期間によってスタジオをさらなる窮地に追い込んでしまう。こうした状況を打破するため、低予算早撮りの映画製作部門(Bユニット)の責任者に、オデッサ生まれのプロデューサー、ヴァル・リュートンが任命される。リュートンが手掛けた『キャット・ピープル』は、1万4千ドルの低予算と17日間の限られたスケジュールで、ウェルズがもたらした債務を回収するできるだけの収益を上げた。その後、リュートンが4年間でプロデュースした低予算映画のほとんどはローキーの不吉な画面を基調とした怪奇映画であり、かくして映画史に「B級ホラー」というジャンルが刻まれることとなった。
 こうした基礎情報は『キャット・ピープル』を語る上で欠かせないものかもしれない。だが、私がこの映画を見返すとき、いつも胸をうたれるのは、シモーヌ・シモンが演じるイレーヌのあまりにふびんなてん末と、異形の者に寄り添うジャック・ターナー監督のまなざしである。だから私にとって『キャット・ピープル』は、ホラーやスリラーである前に、愛と哀しみに満ちたメロドラマだった。

 セルビア系アメリカ人のイレーヌは、動物園で黒ヒョウをスケッチしているところを青年オリバー(ケント・スミス)にナンパされ、恋に落ちる。突然現れた「アメリカで初めての友達」に胸をときめかせるイレーヌを、シモーヌ・シモンがかれんに演じている。オリバーはほどなくしてイレーヌに結婚を申し込むが、彼女にはある不安があった。自分が魔女の末えいであり、「猫族(キャットピープル)」だと信じていることだ。愛した男を食い殺してしまうという一族の伝説を恐れて、イレーヌはオリバーとの関係を深めることができない。結婚後もセックスどころか、キスすら許してもらえないわけだが、オリバーは「待つよ」とやさしくイレーヌを抱き締める。しんしんと降りしきる雪がうつくしい。

 ターナー監督はふたりの関係を「王道」のラブロマンスとして描きながらも、その先にある悲劇への予感を忍ばせる。コントラストの効いたライティング、イレーヌの部屋のゴシック調の美術設計は不穏でエロティックな印象も残す。
 「王道」をカッコ書きにしたのには意味がある。当時のハリウッド映画にはヘイズコードがあり、いわば映画界全体が〝セックスレス〟だった。劇中、イレーヌとオリバーは別々の部屋で寝ているが、この時代のハリウッド映画では夫婦が寝室を共にする描写はほとんど見られない。『キャット・ピープル』は、こうした夫婦の問題を正常でない状態として描くことで、逆説的にタブーに切り込むことができた。これは製作者、監督、主演女優の全員が、非ハリウッドのヨーロッパ出身者であったことも大きいのかもしれない。
 ハリウッド映画が〝去勢〟されていた一方で、当時のアメリカ社会では、フロイト精神分析が輸入され、性への意識改革が広まっていく。『キャット・ピープル』の後には、アメリカ人の性生活を調査した「キンゼイ・リポート」が発表され、「女性の性欲」もクローズアップされた。ピル解禁、女性解放運動、ウーマンリブといったムーブメントが続き、女性の性が解放されていくなかで、そこから取り残される女性たちの恐怖もまた時代の気分として映画に反映された。『キャット・ピープル』を筆頭に、『恐怖の足跡』(1961) 、『たたり』(1963)、『反撥』(1964)といった系譜が連なっていく。
 『キャット・ピープル』でも、精神医学的なアプローチがみられる。オリバーの勧めでイレーヌは精神科医(トム・コンウェイ)に診察をしてもらうが、この医師がオリバーの同僚アリスの紹介だったことを知り、イレーヌは激高する。このあたりから二人の結婚関係にも亀裂が生まれ、その間隙をつくようにアリスは自らの恋心をオリバーに打ち明ける。アリスの狡猾さにも驚くが、さらに上を行くのは「最近妻を愛しているのかよくわからない…」と口走るオリバーのクズ人間ぶりである。
 嫉妬にかられたイレーヌは徐々に怪物化し、アリスをおびやかす。通算2回あるアリスへの襲撃シーンは、いずれもリュートンタッチの恐怖演出が存分に味わえる。わかりやすいモンスターは登場せず、街路樹のざわめき、不意に画面に滑り込むタクシー、プールサイドでゆらめく水面の影など、間接表現だけで観客の恐怖と緊張を高めていく。『キャット・ピープル』がホラー映画としていまも色あせない輝きを放っているのは、こうした部分だろう。

 さらに特筆すべきは、イレーヌをあくまで弱者として位置付ける視点である。オリバーへの愛情と猫族としての魔性との間で引き裂かれ、バスルームでひとりむせび泣く。疎外感と罪悪感に押しつぶされそうなイレーヌの心のゆらぎが痛々しく、私たちはいつのまにか、あわれな猫女に感情移入しているのだ。キャット・ピープルが本当に存在するのか、それともイレーヌの誇大妄想なのかーー。その判断は、最後まであいまいにされている。精神科医の治療やイレーヌの悪夢は、この時期の映画によく見られるニューロティックな表現がされているが、重要なのはイレーヌの「妄想」が徐々に周囲にとっての「真実」へと変質していくところだ。アリスはイレーヌの危険性を精神科医に相談し、オリバーはイレーヌに別れを告げる。ふたりは精神科医を交えて、今後のイレーヌの処遇について談合する。イレーヌを入院させれば離婚できないので、アリスと再婚できない。なんとか協議離婚しよう…と、クズのようなことを話し合っている。いったいどちらが怪物なのか。『キャット・ピープル』でほんとうに恐ろしいのは、この3人の事務的で淡々とした偽善性である。イレーヌの一族に伝わる物語はどこか中世の魔女狩りを連想させるが、この場面からはそれと同質の狂気が透けて見えるようだ。

 人間の愛を得ることも、怪物として生きることもできないイレーヌは、オリバーにそっと別れを告げる。この映画で最もうつくしく、痛ましいカットである。映画冒頭、初めて部屋を訪れたオリバーを見送るカットとほとんど同じ構図を反復している。オリバーに向けて手を振ろうとするというシモーヌ・シモンの身ぶりがとても美しい。ここにメロドラマとしての『キャット・ピープル』の真骨頂がある。
 イレーヌは動物園の檻の中から黒ヒョウを解放し、力尽きる。黒ヒョウは車に轢かれてあっけなく命を落とし、イレーヌの亡きがらもまた、醜い黒ヒョウの姿に変わっていた。その姿をみとめ、オリバーとアリスは彼女の物語が真実であったと悟る。異形の者に背を向け、足早に立ち去る二人を、斃れた黒ヒョウが見送る。そのみじめな姿は、踏みにじられてきた女性たちの、幾多の魂のようにもみえる。

『ブレックファスト・クラブ』(ジョン・ヒューズ)

The Breakfast Club/1985/US

バーノン先生、僕たちがせっかくの土曜日に登校を命じられたのは当然の報いだと思います。僕たちは間違いを犯しました。
でも自分とは何かという作文を書けだなんてばかげています。意味がありません。
先生は色眼鏡で僕らを見て、自分に都合よく何かを決め付けてるから。
僕らはガリベンに
スポーツ馬鹿
不思議ちゃん
お姫様
チンピラ
でしょ?
今朝7時まで僕らもそう思っていました。
そう思い込んでた。

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 シンプル・マインズの名曲「Don't You Forget About Me」に乗せて、5人の高校生が土曜日の学校に登校してくる。父親のBMWで送ってもらったクレア(モリー・リングウォルド)は誰もがあこがれる学園のお姫様(Princess)。授業をサボってショッピングに出かけただけで補習を受ける羽目になり、不満たらたらだ。見るからにダサいニット帽をかぶったブライアン(アンソニー・マイケル・ホール)は車の中で母親になじられている。「これは最初なの?最後なの?」。物理部に所属するガリ勉(Brain)がなぜ補習を受けることになったのかは、ここではまだわからない。

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 一方レスリング部の特待生、スポーツ馬鹿(Athlete)のアンドリュー(エミリオ・エステベス)も父親に責められていた。「奨学金がもらえなくなる」という言葉に露骨に苛立ち、乱暴に車のドアを閉める。アンドリューの父親の車が通り過ぎると画面の奥からジョン(ジャド・ネルソン)がってくる。5人のなかで唯一ひとりで登校。補習の常連のチンピラ(Criminal)だ。続いて画面にすべりこむ別の自動車。後部ドアから降りたアリソン(アリー・シーディ)が運転席に話しかけようとすると、車はすぐに出発してしまう。ゴスメークにぼさぼさの髪の毛、やけに大きなバッグを抱えた不思議ちゃん(Bascket Case)。この短いオープニングのなかで、5人の若者のおかれた状況や葛藤はほとんどすべて出そろっている。

 アメリカのスクールカーストを真正面からあつかった初めての作品として、映画史に燦然と輝く『ブレックファスト・クラブ』は、たがいの名前すら知らなかった5人の高校生のたった半日間の交わりを、みずみずしいタッチでつづる。主要な登場人物はこの5人に、教師と用務員を加えた7人のみで、ほとんどの場面が図書室を舞台としている密室劇だ。映画より演劇向きのシナリオといえるかもしれない。じっさいアメリカでは演劇で本作を扱う高校が多いらしい。一見してシンプルな映画だが、登場人物の心理や関係性の力学が毎分のように更新されていく複雑な映画である。くり返して見れば見るほど、細密に考え抜かれた構成の妙、レイヤーを幾層にも重ねたかのような人物造形にうならされる。

 時系列や場所の変動すらほとんど見られない。バーノン先生から、「自分とは何か」という抽象的な作文課題を与えられ、約8時間の補習を過ごす5人の様子を定点観測する。彼らが同じ学校に通っているのに、たがいの名前すら知らないのには理由がある。5人は身を置いている家庭環境がちがう。家庭環境がちがえば、人生哲学がちがう。人生哲学がちがえば、付き合う友達がちがう。付き合う友達がちがえば、それはもうほとんど異世界で生きているようなものなのだ。そんな異人種たちが同じ空間に放り込まれ、共通の課題を与えられる。5人は「ちがい」から衝突をくりかえし、一方で教師の叱責を逃れるために野合することにもなる。対立と共犯を行き来しながら、期せずして「自分とは何か」という問い掛けに、認識を深めていくことになる。
 たとえば、昼食のシーンはどうか。大量の食べ物を机に並べるアンドリュー、トーストに粉砂糖とスナック菓子をはさんでかぶりつくアリソン、すし(!)をつまみはじめるクレア…。家庭環境の異なる5人のランチは、ほとんど食文化の違いとすらいえる。

 昼休み中、ジョンは「ジョンソン家の日常」と題してブライアン一家の様子を即興で演じ始める。ジョンによって極端にカリカチュアされた即興劇を初めは笑いながら見ているアンドリューが少しずつ表情を曇らせていくのは見逃せない。他人ごとだと思って見るうちに、自分にも思い当たるふしがあると気づいてしまうのだ。コメディ的効果をねらって誇張された5人の「ちがい」が、しかし、徐々にシリアスさを増していく。こういうところが、『ブレックファスト・クラブ』の油断ならないところだ。アンドリューの表情は、のちに明かされる彼の「補習に呼ばれた理由」の伏線にもなっている。

 もちろんブライアンの表情も暗い。アンドリューはブライアンの表情を見た上で、「お前はどうなんだ」とジョンに仕掛ける。このとき、アンドリューはほとんど初めてブライアンに共感する。

 暴力が横行するジョンのハードな家庭環境を聞き、アンドリューは「イメージ作りのためのでっち上げ」だと切り捨てる。ジョンのように父親に突っかかった経験など、アンドリューにはただの一度もないのだろう。ジョンは、父親に葉巻で付けられたやけどの跡をアンドリューに見せつける。反抗的な態度をとりながらも、つねにその言動にユーモアを忍ばせてきたジョンが、初めてストレートに激高する場面だ。ジョンが育っている家庭はほかの4人とは全く違っている。少なくともジョンはそう自覚している。確かに5人の中でジョンだけは一人で登校してきたし、昼食もない。つまはじきにされ生きていくことがほとんどあらかじめ決まっているような人間だ。どんなにもがいても飲んだくれで役立たずの父親と同じ人生を歩んでいることが目に見えている。持たざるものとして、周囲に唾を吐き中指を立てることしかできない。
 こうしたジョンの生き方もまた、バーノン先生によって完膚なきまでにたたきのめされる。先生は、ジョンの将来について偏見と悪意に満ちた、だか限りなく真実に近い言葉を吐きかける。5年後のジョンは誰からも尊敬されないろくでなしになってしまっているのだろうか。あまりの迫力にジョンは、得意の憎まれ口を叩くことも、殴り返すこともできない。この痛ましい敗北ぶり。だが、ジョンの成長を促す場面でもある。確かにジョンの境遇は恵まれているとはいえない。しかし彼はシニカルなアウトローとして振る舞うことで、自分の生き方を決め付けていた。バーノン先生は完全な正論をもってジョンの偽悪性を喝破する。

 衝突をくりかえしながらも、彼らの共犯関係はふしぎと強固になっていく。天井裏をつたって図書室に戻ってきたジョンをかくまうため、ほかの4人がせき払いでごまかす場面で、その関係は決定的にとなる。この後すぐにマリファナを吸ってハイになるわけだが、唯一、ほかのみんなと距離を詰められるにいるのがアリソンだ。アリソン以外の4人は同じ画面に収まる頻度が増えてくるが、アリソンが登場するカットは意図的に割られている。ほかの4人が両親との関係のしがらみにとらわれているのと対照的に、アリソンの家族関係は破たんしていた。突拍子もないうそをついたり、かばんの中身をぶちまけたりする奇抜な行動でしか、周囲とコミュニケーションをとることができない。それすらも彼女にとって勇気がいることだったのかもしれない。一緒に過ごした数時間を通して、コミュニケーションへの淡い期待を抱き、彼女なりのSOSを発した。そんなふうにもおもえる。

 約20分にもおよぶ終盤の会話劇は、5人の人生哲学がぶつかり合う映画の総決算だ。これまで登場してきたさまざまな議題が俎上に載り、関係性がめまぐるしく変遷していく。最初に取りざたされるのは「性体験」の話題。他愛もない会話をするクレアとアンドリューに対して、アリソンが唐突に「エッチなことなら何でもする」と割って入る。浮ついたファンタジーに淫してちっとも現実の話をしないクレアへの攻撃ともとれる。露骨な拒絶感を示すクレアにアリソンは「あんたはやったことあるの?」と追求し、「したことないって言えば堅物、あると言えばあばずれ。どっちも損をするからあなたは答えられない」とクレアの虚飾性を暴いていく。ジョンも加勢し追い詰められたクレアはついに自分が処女だと認める。しかしそんなことは、昼休みブライアンの童貞を肯定したことからもあらかた予想はついていた。重要なのはクレアが自分の内面をさらけだしたことだ。クレアの答えを引き出し満足したアリソンは実は自分もセックス体験がないと打ち明ける。
 クレアはアリソンを変人呼ばわりするがアンドリューは「俺たちみんな変だ」と擁護する。アンドリューは自分が補習に呼ばれた理由を語り始める。アンドリューが補習に呼び出された理由は「ラリー・レスターの尻(背中)にテープを貼った」こと。体育会系いじめっこ(ジョックス)にありがちな行為だった。思わず吹き出してしまうクレアと動揺するブライアンの反応が対照的だ。ラリー・レスターはブライアンの友達でもあった。アンドリューの標的はひょっとするとブライアンだったかもしれない。相手は弱虫なら誰でも良かった。アンドリューの行動にはさらに根深い問題があった。若いころの悪行を自慢する父親へのコンプレックスもあったのだ。

過剰なマッチョイズムと競争主義を押しつける父親への不満をぶちまけ、ついには泣いてしまう。彼がこんな情けない姿を人前で見せたことがあっただろうか。おそらくふだんの友達に告白することはできない。まったく無関係のメンバーだったからこそアンドリューは自分をさらけだすことができた。ひとつひとつの言動に注目すると、ヒューズ監督が細心の注意を払いながらアンドリューというキャラクターの物語を紡いでいることがわかる。ジョックスとしての典型的なふるまい(「力」「勝利」への執着)を基軸としながらも、自分の意見が持つことができない弱い人間として丁寧に描き込まれているんです。彼が人の表情を読み取ることに異常に長けていたのもそのためではないか。アンドリューの話を聞いたジョンは「俺の親父とお前の親父でボーリングにでも行けばいいのにな」とジョークを飛ばす。昼休みにジョンの家庭事情を作り話と決め付けたアンドリューへの「ゆるし」にもなっている。
 次にブライアンがアンドリューに共感を示す。アンドリューにとってのスポーツがブライアンにとっての勉強。のしかかるプレッシャーじたいに変わりはない。ブライアンは「馬鹿なやつらが取っているから」楽勝科目だと思い込んでいた技工で赤点を取ってしまったことを明かす。ジョンも技巧を取っていて、ここでもブライアンの偏見が暴かれる。ブライアンは「三角法も知らないで技工が成立するはずない」と言うが、ジョンは技工を落としてしまうなんて「逆に天才だ」と一蹴する。
 「どっちかが優れているとかではない」とクレアが二人の間に入る。クレアも、アンドリューも、ブライアンも、学校内でのイメージと偏見にとらわれていた。こうした中で、クレアは手を使わずにグロスを塗るという特技を披露する。かなり打ち解けたムードなので全員で盛り上がるのだが、ジョン一人だけが「お嬢様イメージは失墜したな」とイヤミを言い出す。アリソンとアンドリューがジョンを批難するがジョンは「俺なんて数に入らないんだろ」(最初の会話の場面の反復)とはねかえす。ジョンの中のわだかまりは消えていない。ジョンはクレアへの攻撃の手をゆるめない。ジョンとクレアの世界はあまりに違いすぎた。5人が少しずつ交流を深めていただけに痛ましいが、こういう場面が『ブレックファスト・クラブ』の青春映画としての誠実さだと私はおもう。5人は少しずつ互いのことを理解し、好きになり始めている。だからこそ、知れば知るほどに浮き彫りになる見えない壁に胸が苦しくなる。
 プレゼントにもらうのはダイヤモンドのピアスかタバコ1カートンか。クレアとジョンの格差の原因はたぶん両親の違いにある。お互いの間に深い溝があることは確かだが、5人とも両親という足かせにもがき苦しんでいることは共通しているようだ5人の心の弱さを現時点で一番深く把握しているアンドリューが「自分たちも親みたいになってしまうのか」という疑問を口にする。
 真っ先に「自分はいやだ」と言ったのは意外にもクレアだった。ジョンが少し驚いた様子でクレアの方を見て微笑む。ジョンはこのときクレアにちょっとだけ救われたのではないか。ジョンとクレアにはまだまだ歩み寄る余地がある。ジョンとクレアの未来は決まりきっているようで、ほんとうは決まっていない。クレアの言葉がジョンの心に響いているのがわかり、このシーンにはいつもじんとしてしまう。これに対しアリソンはいくぶんペシミスティックな態度をとる。「大人になると心が死んでしまう」。誰にもそれを止めることはできない。
 そしてついに『ブレックファスト・クラブ』最大のテーマをブライアンが口にするときがきた。僕たちは友達になれた。でも月曜日も友達なのか。誰もが気になっていたこと。同時に少しだけ答えも見えていたこと。それでも目をそらしてやり過ごそうとしてきたこと。クレアが残酷な事実をブライアンに告げる。「無視する」。アンドリューとジョンに激しく批難されてもクレアは毅然とした態度ではねのける。「同じ体育会系の友達の前でブライアンが話しかけたらどうするか。きっとあなたは『やあ』と返事をしたあとでブライアンの悪口を言うわ」、「あなたはアリソンを不良の集まるパーティに連れて行く?ブライアンを昼休みにマリファナに誘える?私が話しかけてきたら?きっとあなたは『あいつはやらせてくれるから付き合ってるだけだ』っていうはずだ」。図星だからアンドリューもジョンも言い返すことができない。

 クレアとジョンの言い争いを聞きながら思わず涙をこぼしてしまうブライアンの表情にも胸が締め付けられる。この映画の中ではどの人間も等しくいい奴で等しく嫌な奴だ。互いが本気で理解しあおうとしたときのあつれきが冷酷なまでに描かれている。「あなたには私たちのプレッシャーを理解できない」というクレアに、ブライアンは激怒する。そして、自分が補習に来た理由は、隠し持っていた銃が見つかったからだと告白する。技工の赤点は自殺を考えるほど彼を追い詰めていたのだった。深刻さのレベルでは群を抜いているし、これにはほかの4人も慄然とする。だが、ロッカーでフレアガンが暴発した話を聞いて思わず吹き出してしまうアンドリュー。「笑えない」と制止するブライアンだったが、「笑えるね、象のランプ(技工の課題)はこなごなになったよ」と言って微笑む。たぶんこの瞬間にブライアンの苦悩も氷解したのかもしれない。人に話すだけで解決することってあるよね。

 少し空気が和らいだところでアリソンも補習に来たわけを明かす。何も問題を起こしていなかった。ただ退屈だったからここに来たという。いっせいに笑い出す5人。私はここでいつも泣いてしまう。全編を通しても、5人が同じフレームの中で一緒になって笑っているのは実はこのワンカットだけなのだ。月曜になればいつもどおり。5人がこんなふうにそろって笑う瞬間はおそらく永遠に来ない。彼ら自身もそのことに気が付いている。刹那的で夢のようなつながり。でも5人はそれぞれにここでしか得られない大事な何かを手にしたのだ。
 5人がダンスをする場面はいかにも80年代という印象があるが、その意味ではクレアがアリソンに化粧をする場面はある種の「経年劣化」を感じずにはいられない場面だ。まだティム・バートンが登場していない80年代の限界といったところだろうか。アリソンは自分らしさを捨ててクレア側の美意識に屈服してしまったようにもとれる。私も当初はそう思ったが何度か見ているうちに考えが変わってきた。どうしてこんなことをというアリソンの問いに対しクレアは「Because,You're Letting me(あなたがそうさせてくれるから)」と答える。この場面は「クレアの思いやり」であると同時に「アリソンの思いやり」でもある。彼女たちにとっての別れの儀式にもなっている。アリソンは月曜日にはまたいつものゴスメークに戻っているのかもしれないが、クレアの思いやりを受け入れたことは彼女にとって大きな意味を持つとおもう。

 5人は月曜日からまた友達ではなくなってしまう。2組のカップルもそう長続きはしないだろう。だが私はそれが悲しいこととは、もう思わない。『ブレックファスト・クラブ』が他の青春映画と一線を画しているのは、彼らがついにははなればなれになってしてしまう、その痛みをも描いているところにある。5人はこの半日間でほんの一瞬だけ交わり、火花を散らして、またそれぞれの道へと帰っていく。では月曜日から彼らは先週と同じガリ勉で、スポーツ馬鹿で、不思議ちゃんで、お姫様で、チンピラなのか。それは半分正解で、半分間違ってもいる。明日からは違う、いつものぼくら。確かに月曜日の学校はいつもどおり残酷に彼らを迎えるだろう。だけど、もう先週と同じ自分には戻れない。そのことを「ブレックファスト・クラブ」だけが知っている。
 『ブレックファスト・クラブ』はアイデンティティについての物語だ。「個性」とか「人それぞれ」という言葉が乱暴に都合よく使われてるように思う。かつて金子みすゞは「みんなちがって みんないい」と書いた。しかしそれは金子が生きた時代において「違い」が保証されていなかったからだ。「みんなちがって みんないい」という言葉を最初からおまじないのようにつぶやいてしまうのが今の日本だと私はおもう。異なる価値観から目をそらし、思考停止するためのエクスキューズに成り下がってしまってはいないか。「個性」とはほんらい、違いを確認するプロセスは身を削り、血を流すような苦しみと痛みを伴うものではないか。そうしてぐちゃぐちゃに混ざり合って、信じていた「個性」なんてこなごなに破壊されてしまって、その中で初めて誰にも奪われることのない自分だけの「ちがい」があるのではないか。『ブレックファスト・クラブ』の5人は、それぞれの肩書きと役割を次々と引きはがされ、何ひとつ残らなくなってしまうような激しい精神の揺らぎの中で本当の自分をつかみとっていく。ラストカットでジョンが突き上げたこぶしは、未熟だけれど、誇り高い未来を確かに握りしめている。

バーノン先生、僕たちがせっかくの土曜日に登校を命じられたのは当然の報いです。
でも自分とは何かという作文を書けだなんてばかげています。
先生は色眼鏡で僕らを見て、自分に都合よく何かを決め付けてるから。
でも今日気づきました
僕らはガリベンであり
スポーツ馬鹿
不思議ちゃん
お姫様
チンピラ
答えになっていますか。
以上です。ブレックファスト・クラブより

 

『ラブ&ポップ』(庵野秀明)

Love & Pop/1998/JP

 今ふりかえってみても、1990年代は暗かったなあとおもう。「失われた10年」とかたいそうな位置付けはわからなかったけれど、社会の閉塞感と大人たちの疲弊を子どもながらに肌で感じた。阪神大震災地下鉄サリン事件、『完全自殺マニュアル』という本が流行り、衝撃的な少年事件が相次いだ。教室で、まことしやかにささやかれた「ノストラダムスの大予言」も終末感をあおった。暗いニュースばかり流れるテレビ画面を見つめながら、漠然と「日本終わってるなあ」と感じていた。
 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第1話の時代設定は、2015年6月22日。ほんとうなら、つい先日ようやく過ぎたところだった。はたして今の日本に碇シンジのような少年が存在しうるのかと考える。もちろん現代にもシンジのようにナイーブな中学生はいるのだろう。だが『エヴァ』があれだけ熱狂的に迎えられたのは、シンジの抱える屈折があの時代、格別に共感できるものだったからだとおもう。 
 庵野秀明監督が初めて手掛けた実写映画『ラブ&ポップ』は1997年8月からわずか一か月で撮影され、翌年の1月に公開された。原作は村上龍の同名小説。当時の社会現象であった女子高生の援助交際に取材している。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(いわゆる『夏エヴァ』)の公開は同年7月19日。当時の「時のひと」だった庵野が、流行のトピックスで映画を撮る。今ふりかえってもとんだ「生もの企画」だ。実際、現代の観客が『ラブ&ポップ』を見返すとある種の経年劣化を感じずにはいられないだろう。DVカメラを駆使した「斬新な」映像と編集、内省的なモノローグ、ルーズソックス、エリック・サティ川本真琴、ダンス、パソコン、歌の大辞テンダイヤルQ2…すべてがなつかしく、そして色あせている。それでも、いやだからこそこの映画はほとんどドキュメンタリーのような生々しさで見るものに「97年」を伝える。

 『ラブ&ポップ』は、東京郊外に住むごくふつうの女子高生、吉井裕美(三輪明日美)の一人称で進行する。裕美が友人らと過ごす休日の1日を、回想や幻想を交えながら、時系列で語っていく。その1日とは1997年7月19日。そう、「夏エヴァ」の封切日だ。
 37歳の内向的なおじさんが心身ともにぼろぼろになりながら、ようやく完成させた一世一代の作品が公開されたその日、女子高生たちは能天気に渋谷に水着を買いに出かける…。この残酷な断絶。庵野がこの日を舞台に選んだのは意図的だ。「おじさんと女子高生は理解しあえない」という冷徹な前提が本作全体を貫く。だいいち原作にしたって所詮は「おじさんが書いた女子高生の物語」なのだ。
 別次元を生き、決して理解しあうことはないように見えるおじさんと女子高生は、しかし「援助交際」という特殊な結びつきの中で奇妙に近接する。村上龍は女子高生の視点を借りて、日本中の誰もが抱えていた疎外感を切り取った。そして当時、その時代感覚を誰よりもクリアに視覚化できた映像作家が、おじさんと女子高生の交差点に立った庵野秀明だったのではないか。
 一見、裕美の「主観」のみで語られている本作には、巧みに「客観」が織り交ざる。カメラは、裕美の衣服や電子レンジの中などさまざまな場所に忍びこみ、彼女の日常を「観察」する。裕美の心情を語るナレーションは主役の三輪とは別の人物(河瀬直美)が担当し、奇妙なズレを生む。
 細かな編集とナレーションによる過剰な情報を受け取りながら、見る者は主人公・裕美の心の中になかなか立ち入れない。それどころか、彼女の生活と心を、物陰から覗き見ているかのような、奇妙な居心地の悪さがある。会話シーンを中心に「ナメ」の構図が多用され、窃視性を際立たせる。観客が受け取る居心地の悪さは、この作品の主要なテーマにも関わる。『ラブ&ポップ』の登場人物は誰もが心に埋めることのできない疎外感を抱えていて、その「さびしさ」こそが本作の基調になっているからだ。市川崑に直球のオマージュをささげたタイトルクレジットの直後、裕美のこんなモノローグが入る。 

世の中のものは唐突に変わるときがある。
男も女も。大人も子どもも。お父さんだって2回変わった人がいる。
生きていた人もある日、お墓や写真に変わる。
目に見える形がいつの間にか消えてなくなっていく。
心の中のかたちも変わっていく。
あいまいになっていく。

 あらゆる物事や感情が時とともに乱暴に移り変わっていくことの怖さとふしぎさ、そしてさびしさ…。移ろいゆくものへのささやかな抵抗として裕美はカメラを手にする。消費と享楽の時代を終えた90年代、人々は「変わらないもの」を失い、急速に孤独を深めた。ある人は援助交際に、ある人はカルト教団に「変わらないもの」を求めた。裕美の高校の友達、ナオ(工藤浩乃)、サチ(希良梨)、チーちゃん(仲間由紀恵)も「変わらないもの」をさがし、もがいている。裕美は、「アンネの日記のドキュメンタリー」を見たことを思い出す。

恐ろしくて、でも感動して泣いた。
いろいろ考えて、心がぐしゃぐしゃだった。
でも次の日には、心がすでにつるんとしている自分に気づいた。
自分の中で何かが「済んだ」感じになっているのが
不思議で、いやだった。
サチはきっとその感じがいやでダンサーになる決心をしたんだと思う。


裕美の「さびしさ」が丁寧につづられる序盤の30分をへて、物語の推進力となる「指輪」が登場する。「心がどきどきする」。恍惚に浸りながら裕美は、その気持ちが時間とともに失われることを経験的に悟る。指輪はきょうのうちに手に入れなくてはいけないし、その方法は援助交際しかない。端的にその考えは間違っている。間違っているのだが、物語の積み重ねが彼女のモチベーションに説得力を持たせる。さりげなくちりばめた「手」をめぐるイメージも効果的。ほかの3人の協力を得て、すぐに購入資金12万円を得ることができるが、裕美には受け取れない。理由は「みんなと対等でいたかったから」。裕美は友達と別れ、自分一人の力で指輪を買うと決意する。
 全編を貫く「さびしさ」は、援助交際をする男たちにむしろ顕著というべきだ。原作者や監督にとって、女子高生の主人公たちより、彼女たちにカネを払うおじさんたちのほうがよっぽど近しいからかもしれない。彼らはみな、孤独とコンプレックスを抱え、女子高生にカネを払うことで他人に言えない欲望を成就させようとする。援助交際という関係でしか本当の自分をさらけ出すことのできない滑稽な男たち。どいつもこいつもろくでなしだが、私には彼らの孤独と鬱屈がわかる気がする。女子高生の冷たい視線を通して描かれるおじさんたちの肖像に、本作の真骨頂がある。

 「キャプテン××の男」(浅野忠信)にひどい目にあわされ、裕美は結局、指輪を手に入れることに失敗する。自宅に戻り、バッグの中に指輪を探すがもちろん見つからない。カメラからフィルムが抜き取られていることに気づき、再びフィルムを入れようとするが、途中でやめてしまう。もはや写真では「今」をつなぎとめることはできないと裕美は気づく。ナレーションの河瀬と裕美役の三輪が劇中で初めて言葉を交わし、文字通り「自問自答」が始まる。ここで、河瀬のモノローグは欲望とさびしさの関係について説明する。

自分には何かが足りないと思いながら、友達とはしゃぐのは難しい。
何がが足りないという個人的な思いはその人を孤独にするから。
時がたてば、あの指輪とのつながりもゆっくりと消えていく。
何ががほしい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、
それはとても難しい。

「きっと私にはできない」とつぶやいたとき、裕美は空のフィルムケースの中に何か入っていることに気づく。「キャプテン××の男」がナフキンに走り書きしたメッセージだった。「お前だけに教える××の本当の本名 ミスター ラブ&ポップ」。男が持っていたぬいぐるみには「本名」があったが、裕美が尋ねると「名前を簡単に教えちゃいけないんだよな。××が好きな『シベールの日曜日』みたいに」と教えてくれなかった。1962年のフランス映画『シベールの日曜日』は、傷ついた戦争帰還兵の男と孤児院の少女の、はかない心の交流をつづる。二人は互いの孤独を持ち寄り、疑似親子とも、恋愛とも説明できない特別な絆を深めていく。クリスマスの夜、少女は初めて自分の名前を明かすが、男は少女との「異常な関係」を社会に断罪され、殺されてしまう。原作では、裕美が「『シベールの日曜日』を今度見てみよう」と思い立つところで締めくくられている。
 村上龍は、男と裕美の関係を『シベールの日曜日』になぞらえ、二人の孤独と共感にある種の「希望」を描こうとした。ひとりよがりで出来損ないの「希望」である。ただ映画『ラブ&ポップ』に「希望」があるとすれば、それは間違いなくエンディングだろう。三輪明日美が歌う調子っぱずれの「あの素晴らしい愛をもう一度」に合わせ、主役の4人が渋谷川を歩く様子を、長回しのドリーショットでとらえている。全編をDVカメラで撮影した中で、エンディングだけは35ミリフィルムで撮っている。だからフィルム上映で本作を見たとき、粗いキネコ映像が、エンディングで一気に鮮明になる。画面サイズも広がり、開放感をもたらす。じっさい脚本には「フィルムのありがたみを感じる観客」というト書きまであった。
当初は、まったく別のエンディングが準備されていた。主人公4人が砂浜で遊んでいる映像に、山口百恵の「ひと夏の経験」(曲を選んだのはプロデューサーの南里幸)が流れるというものだ。じっさいに宮古島ロケで撮影までされたが、ボツになり、渋谷川のバージョンに差し替えられた。結果、日本映画史に刻まれるエンディングになった。
 もしエンディングが当初の予定通りだったとしたら、『ラブ&ポップ』はひどくつまらない映画になっていただろう。海辺ではしゃぐ4人がどんなに楽しそうだったとしても、その姿は「希望」になりえないからだ。見るからに汚い渋谷川を4人の少女が前を向いて、歩く。水しぶきを上げ、泥まみれのルーズソックスで、不機嫌そうに、退屈そうに。彼女たちが生きるのは、宮古島の海岸なんかじゃない。渋谷のどぶ川のように、みじめで冷たい「終わっている世界」だ。それでも立ち止まらず、振り返らず歩く。不ぞろいな歩みとへたくそな歌謡曲。だけれど私はいつも、そこに確かな「希望」を感じるのだ。

『ローラ』(ジャック・ドゥミ)

Lola/1961/FR

 『ローラ』はジャック・ドゥミ監督の長編第1作だ。ドゥミと聞くと『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』に代表されるめまいがするような色彩感覚と甘いメロディーに彩られたミュージカル映画を思い起こす人も多いとおもう。『ローラ』はモノクロ映画でミュージカルでもないが、港町、水夫、シングルマザー、踊り子などドゥミ作品における主要なモチーフは、ほぼすべてそろっている。今でこそ国内でソフト化され、上映される機会も増えたが、完成から長い間、日本で『ローラ』を見るチャンスはごく限られていた。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と評したジャン=ピエール・メルヴィルをはじめ、名だたる映画作家が贈る賛辞を聞いては、想像し、恋い焦がれるほかない「夢のフィルム」だった。日本での初公開は1992年だが、当時7歳の私はもちろん見ていない。
 私が初めて『ローラ』を見たのは2007年3月20日。渋谷のユーロスペースだった。あの夜を今も鮮烈に覚えている。胸をかきむしるような切なさにとりつかれ、ふらふらと映画館をあとにした。電車に乗っている間も、アパートに帰ってからも、ベッドに入ってからも、美しいナントの風景が、愛すべき登場人物たちが、ベートーベンのシンフォニーが、頭から離れない。心を盗まれるとは、きっとああいうことを言うのだろう。映画には、人の生き方を決定的に狂わせてしまう魔力があるのだと私は初めて突きつけられた。それはもう、ほとんど恋としか言いようがなかった。
 そして、あの夜から8年が過ぎた。映画の中でローラ(アヌーク・エーメ)は7年間も恋人を待ち続ける。当時はずいぶんと長い時間に思われたが、今はそうは思わない。この8年間、あの夜の陶酔とフィルムへの恋心が、私の中で色あせることはなかったからだ。
 ただ、この映画についてまともな文章は書けなかった。ラウール・クタールのカメラがとらえた光のように、『ローラ』のうつくしさははかなく、つかみどころがない。だから『ローラ』についてつづると、いつだってやたらと感傷的な、できの悪いラブレターのようにしかならなかった。今回もそうなるかもしれないが、30歳を前にもう一度この負け戦に挑むことにした。

 『ローラ』はドゥミのふるさとでもある港町ナントを舞台に3日間の人間模様を描いた群像劇だ。初恋の相手を待ち続けるシングルマザーの踊り子ローラを中心に、複数の登場人物が交わり、あるいは交わることなく物語を織りなしていく。

 冒頭、海岸沿いの道路に白いオープンカーが滑り込み、タイトルが現れる。ここで流れる短く美しい旋律は、ドゥミが敬愛する映画監督マックス・オフュルス『快楽』からの引用である。タイトルクレジットのかたわらには律義に「マックス・オフュルスに」と記されている。そもそもローラという名前じたいがオフュルスの代表作『歴史は女で作られる』(原題『ローラ・モンテス』)からの取られているとの説もあるが、実際は『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)からのようだ。
 いずれにせよヌーヴェルヴァーグ一派の例にもれず、ドゥミもまた愛する映画へのオマージュを映画のいたるところに忍ばせている。ただ『ローラ』が真にすぐれているのは、こうしたオマージュが自然に物語に溶け込み、教養主義におちいっていない点だ。『ローラ』を見るために、知識はいらない。必要なのは誰かをはげしく恋い焦がれながら、敗れ去った苦い記憶だけだ。
 ドゥミ作品のなかでは、多くの人々がすれちがいを繰り返す。『ローラ』はわけても、めまぐるしいすれちがいが繰り広げられる1本だ。冒頭の数分間だけで、すでに幾多のすれちがいが描かれている。オープンカーの男、アメリカの水兵フランキー、そして主人公のローラン・カサール。3人の男はおのおのがローラという1人の女性を介して関わりを持ちながらも、互いに言葉を交わす瞬間はついに訪れない。劇中で彼らは何度もすれちがうが、互いの存在をほとんど意識すらしていない。観客だけが彼らの「近くて遠い」ふしぎな距離感を目撃することになる。自分のまわりでも、同じようにすれちがい、出会わなかった人がいるのだろうか。そんな想像をかき立てる。「出会わない運命」を丹念に描きつくしているからこそ、ドゥミの映画のなかの「出会い」は運命的で、息がとまるほどにドラマチックにみえる。

 主人公のローラン・カサールはいかにも頼りないダメ男である。登場早々に寝坊した上に、会社の上司には「読書していた」と悪びれもせず遅刻の言い訳をし、当然のようにクビになる。そのくせ口だけは達者で、行きつけのカフェで女主人と常連客を相手に理屈ばかり並べている。ジャック・ベッケル監督の傑作脱獄映画『穴』で知られるマルク・ミシェルが、無気力でペシミスティックな青年を好演している。物語が進むにつれ、彼の心に暗い影を落とす戦争の傷跡が明らかになる。「たった一人の友達だったポワカールも殺された」というせりふはもちろん、ゴダールの『勝手にしやがれ』への目配せだ。自暴自棄になったカサールはポワカールと同じく犯罪に手を染めかけるが、初恋の相手ローラ(本名はセシル)との再会をきっかけに、生きる希望を見出していく。
 この映画にはローラのほかにもうひとりのヒロインがいる。カサールが書店で出会う14歳の少女セシルだ。ローラの本名と同じ名前であり、若き日のローラの生きざまが重ねられている。ローラの運命をなぞるように、セシルはアメリカの水兵フランキーと出会い、恋をする。フランキーとセシルが祭りで遊ぶ場面は本作のハイライト。不可解だけど、あらがうことのできない恋の魔法を、これほどみごとに表現した映像を私は知らない。高揚感と官能に上気したセシルの表情。バッハの平均律クラヴィアのメロディーが流れる中、スローモーションで2人の姿をとらえたシーンの、とろけるような甘さ。少女が恋に落ちた、まさにその瞬間を生け捕っている。

 ドゥミにとって14歳という年齢も重要だ。ローラが初恋の相手ミシェルと初めて出会ったのも14歳とされている。ローラとカサールの年齢は劇中では語られないが、演じた俳優は、ともに当時29歳。二人の再会は15年ぶりというから、カサールがローラに恋をしたのも14歳のときかもしれない。ちなみにドゥミが「生涯の1本」と崇拝し、本作でもオマージュをささげている『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督)に初めて出合ったのも14歳だ。ドゥミが「14歳の初恋」にこだわるのは、彼自身が映画と恋に落ち、取りつかれた年齢だったからなのかもしれない。
 『ローラ』は、初恋をあつかった映画だ。「どうして初恋は特別なのか」。少女セシルの問いにカサールは「初恋は一度きりの特別なもので、二度とめぐってこないから」と答える。多くの人にとって初恋は、生まれて初めての相互理解への敗北だ。挫折は、いつまでも心の片隅に居すわり、私たちを縛り、傷つけ続ける。それなのに、たびたび記憶から取り出しては未練がましい後悔だけが積み重なっていく。まるで呪いのように、人々の心に棲みつく初恋という名の幻想。その甘美さと残酷さの両面を引き出したからこそ、『ローラ』は特別な映画になった。
 待ち続けた恋人がついに現れ、物語はハッピーエンドを迎える。だが、それはカサールの恋が敗れたことを意味する。初恋の「勝者(ローラ)」と「敗者(カサール)」が最後にすれちがい、映画は幕を閉じる。ハッピーエンドの充足感とともに、ほろ苦い感傷が見る者の心に押し寄せてくる。振り返ってカサールを見送るアヌーク・エーメのクローズアップが美しい。ディズニー映画のおとぎ話よろしく、ローラにかけられた呪いは解けた。だがそれが彼女にとって幸せなことだったのか。憂いを帯びた表情は、きびしい現実を予感させる。
 じっさいドゥミは別の映画でカサールとローラのその後を描いた。個別の小説のなかに共通のキャラクターを再登場させ、横糸を編むことで、世界全体を描こうとしたバルザックの「人間喜劇」と同じ手法を、ドゥミもフィルモグラフィーのなかで実践していく。カサールは『シェルブールの雨傘』で宝石商として成功した姿を見せ、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインと結婚する。皮肉にも今度が自分が別の男の恋を打ち砕く存在になっていた。ローラは『モデル・ショップ』で夫に棄てられ、いかがわしい店のモデルに身をやつす顛末が語られる。
 ドゥミの映画は一見して明るく空想的だが、その裏側には暴力や戦争といったきびしい現実が潜んでいる。人々はしばしば運命にほんろうされ、引き裂かれる。ある者は自暴自棄になり、ある者は幻想を抱きつづける。だがドゥミは全ての人々にひとしく、優しいまなざしをそそぐ。そして、最後は必ず希望が勝利する。打ちひしがれながらも希望を捨てないローラと接し、カサールは気づく。「幸せを願うだけで、すでにちょっとだけ幸せなんだ。人生は美しい」。このせりふにドゥミの人生賛歌が凝縮されているのではないか。そう、『ローラ』のなかには、幸せを願いつづける美しいひとびとが、何人も登場する。希望を抱き続けるおろかで美しいひとびとがいる限り、ヌーヴェルヴァーグの真珠は輝きを失わない。