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『ラブ&ポップ』(庵野秀明)

Love & Pop/1998/JP

 今ふりかえってみても、1990年代は暗かったなあとおもう。「失われた10年」とかたいそうな位置付けはわからなかったけれど、社会の閉塞感と大人たちの疲弊を子どもながらに肌で感じた。阪神大震災地下鉄サリン事件、『完全自殺マニュアル』という本が流行り、衝撃的な少年事件が相次いだ。教室で、まことしやかにささやかれた「ノストラダムスの大予言」も終末感をあおった。暗いニュースばかり流れるテレビ画面を見つめながら、漠然と「日本終わってるなあ」と感じていた。
 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第1話の時代設定は、2015年6月22日。ほんとうなら、つい先日ようやく過ぎたところだった。はたして今の日本に碇シンジのような少年が存在しうるのかと考える。もちろん現代にもシンジのようにナイーブな中学生はいるのだろう。だが『エヴァ』があれだけ熱狂的に迎えられたのは、シンジの抱える屈折があの時代、格別に共感できるものだったからだとおもう。 
 庵野秀明監督が初めて手掛けた実写映画『ラブ&ポップ』は1997年8月からわずか一か月で撮影され、翌年の1月に公開された。原作は村上龍の同名小説。当時の社会現象であった女子高生の援助交際に取材している。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(いわゆる『夏エヴァ』)の公開は同年7月19日。当時の「時のひと」だった庵野が、流行のトピックスで映画を撮る。今ふりかえってもとんだ「生もの企画」だ。実際、現代の観客が『ラブ&ポップ』を見返すとある種の経年劣化を感じずにはいられないだろう。DVカメラを駆使した「斬新な」映像と編集、内省的なモノローグ、ルーズソックス、エリック・サティ川本真琴、ダンス、パソコン、歌の大辞テンダイヤルQ2…すべてがなつかしく、そして色あせている。それでも、いやだからこそこの映画はほとんどドキュメンタリーのような生々しさで見るものに「97年」を伝える。

 『ラブ&ポップ』は、東京郊外に住むごくふつうの女子高生、吉井裕美(三輪明日美)の一人称で進行する。裕美が友人らと過ごす休日の1日を、回想や幻想を交えながら、時系列で語っていく。その1日とは1997年7月19日。そう、「夏エヴァ」の封切日だ。
 37歳の内向的なおじさんが心身ともにぼろぼろになりながら、ようやく完成させた一世一代の作品が公開されたその日、女子高生たちは能天気に渋谷に水着を買いに出かける…。この残酷な断絶。庵野がこの日を舞台に選んだのは意図的だ。「おじさんと女子高生は理解しあえない」という冷徹な前提が本作全体を貫く。だいいち原作にしたって所詮は「おじさんが書いた女子高生の物語」なのだ。
 別次元を生き、決して理解しあうことはないように見えるおじさんと女子高生は、しかし「援助交際」という特殊な結びつきの中で奇妙に近接する。村上龍は女子高生の視点を借りて、日本中の誰もが抱えていた疎外感を切り取った。そして当時、その時代感覚を誰よりもクリアに視覚化できた映像作家が、おじさんと女子高生の交差点に立った庵野秀明だったのではないか。
 一見、裕美の「主観」のみで語られている本作には、巧みに「客観」が織り交ざる。カメラは、裕美の衣服や電子レンジの中などさまざまな場所に忍びこみ、彼女の日常を「観察」する。裕美の心情を語るナレーションは主役の三輪とは別の人物(河瀬直美)が担当し、奇妙なズレを生む。
 細かな編集とナレーションによる過剰な情報を受け取りながら、見る者は主人公・裕美の心の中になかなか立ち入れない。それどころか、彼女の生活と心を、物陰から覗き見ているかのような、奇妙な居心地の悪さがある。会話シーンを中心に「ナメ」の構図が多用され、窃視性を際立たせる。観客が受け取る居心地の悪さは、この作品の主要なテーマにも関わる。『ラブ&ポップ』の登場人物は誰もが心に埋めることのできない疎外感を抱えていて、その「さびしさ」こそが本作の基調になっているからだ。市川崑に直球のオマージュをささげたタイトルクレジットの直後、裕美のこんなモノローグが入る。 

世の中のものは唐突に変わるときがある。
男も女も。大人も子どもも。お父さんだって2回変わった人がいる。
生きていた人もある日、お墓や写真に変わる。
目に見える形がいつの間にか消えてなくなっていく。
心の中のかたちも変わっていく。
あいまいになっていく。

 あらゆる物事や感情が時とともに乱暴に移り変わっていくことの怖さとふしぎさ、そしてさびしさ…。移ろいゆくものへのささやかな抵抗として裕美はカメラを手にする。消費と享楽の時代を終えた90年代、人々は「変わらないもの」を失い、急速に孤独を深めた。ある人は援助交際に、ある人はカルト教団に「変わらないもの」を求めた。裕美の高校の友達、ナオ(工藤浩乃)、サチ(希良梨)、チーちゃん(仲間由紀恵)も「変わらないもの」をさがし、もがいている。裕美は、「アンネの日記のドキュメンタリー」を見たことを思い出す。

恐ろしくて、でも感動して泣いた。
いろいろ考えて、心がぐしゃぐしゃだった。
でも次の日には、心がすでにつるんとしている自分に気づいた。
自分の中で何かが「済んだ」感じになっているのが
不思議で、いやだった。
サチはきっとその感じがいやでダンサーになる決心をしたんだと思う。


裕美の「さびしさ」が丁寧につづられる序盤の30分をへて、物語の推進力となる「指輪」が登場する。「心がどきどきする」。恍惚に浸りながら裕美は、その気持ちが時間とともに失われることを経験的に悟る。指輪はきょうのうちに手に入れなくてはいけないし、その方法は援助交際しかない。端的にその考えは間違っている。間違っているのだが、物語の積み重ねが彼女のモチベーションに説得力を持たせる。さりげなくちりばめた「手」をめぐるイメージも効果的。ほかの3人の協力を得て、すぐに購入資金12万円を得ることができるが、裕美には受け取れない。理由は「みんなと対等でいたかったから」。裕美は友達と別れ、自分一人の力で指輪を買うと決意する。
 全編を貫く「さびしさ」は、援助交際をする男たちにむしろ顕著というべきだ。原作者や監督にとって、女子高生の主人公たちより、彼女たちにカネを払うおじさんたちのほうがよっぽど近しいからかもしれない。彼らはみな、孤独とコンプレックスを抱え、女子高生にカネを払うことで他人に言えない欲望を成就させようとする。援助交際という関係でしか本当の自分をさらけ出すことのできない滑稽な男たち。どいつもこいつもろくでなしだが、私には彼らの孤独と鬱屈がわかる気がする。女子高生の冷たい視線を通して描かれるおじさんたちの肖像に、本作の真骨頂がある。

 「キャプテン××の男」(浅野忠信)にひどい目にあわされ、裕美は結局、指輪を手に入れることに失敗する。自宅に戻り、バッグの中に指輪を探すがもちろん見つからない。カメラからフィルムが抜き取られていることに気づき、再びフィルムを入れようとするが、途中でやめてしまう。もはや写真では「今」をつなぎとめることはできないと裕美は気づく。ナレーションの河瀬と裕美役の三輪が劇中で初めて言葉を交わし、文字通り「自問自答」が始まる。ここで、河瀬のモノローグは欲望とさびしさの関係について説明する。

自分には何かが足りないと思いながら、友達とはしゃぐのは難しい。
何がが足りないという個人的な思いはその人を孤独にするから。
時がたてば、あの指輪とのつながりもゆっくりと消えていく。
何ががほしい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、
それはとても難しい。

「きっと私にはできない」とつぶやいたとき、裕美は空のフィルムケースの中に何か入っていることに気づく。「キャプテン××の男」がナフキンに走り書きしたメッセージだった。「お前だけに教える××の本当の本名 ミスター ラブ&ポップ」。男が持っていたぬいぐるみには「本名」があったが、裕美が尋ねると「名前を簡単に教えちゃいけないんだよな。××が好きな『シベールの日曜日』みたいに」と教えてくれなかった。1962年のフランス映画『シベールの日曜日』は、傷ついた戦争帰還兵の男と孤児院の少女の、はかない心の交流をつづる。二人は互いの孤独を持ち寄り、疑似親子とも、恋愛とも説明できない特別な絆を深めていく。クリスマスの夜、少女は初めて自分の名前を明かすが、男は少女との「異常な関係」を社会に断罪され、殺されてしまう。原作では、裕美が「『シベールの日曜日』を今度見てみよう」と思い立つところで締めくくられている。
 村上龍は、男と裕美の関係を『シベールの日曜日』になぞらえ、二人の孤独と共感にある種の「希望」を描こうとした。ひとりよがりで出来損ないの「希望」である。ただ映画『ラブ&ポップ』に「希望」があるとすれば、それは間違いなくエンディングだろう。三輪明日美が歌う調子っぱずれの「あの素晴らしい愛をもう一度」に合わせ、主役の4人が渋谷川を歩く様子を、長回しのドリーショットでとらえている。全編をDVカメラで撮影した中で、エンディングだけは35ミリフィルムで撮っている。だからフィルム上映で本作を見たとき、粗いキネコ映像が、エンディングで一気に鮮明になる。画面サイズも広がり、開放感をもたらす。じっさい脚本には「フィルムのありがたみを感じる観客」というト書きまであった。
当初は、まったく別のエンディングが準備されていた。主人公4人が砂浜で遊んでいる映像に、山口百恵の「ひと夏の経験」(曲を選んだのはプロデューサーの南里幸)が流れるというものだ。じっさいに宮古島ロケで撮影までされたが、ボツになり、渋谷川のバージョンに差し替えられた。結果、日本映画史に刻まれるエンディングになった。
 もしエンディングが当初の予定通りだったとしたら、『ラブ&ポップ』はひどくつまらない映画になっていただろう。海辺ではしゃぐ4人がどんなに楽しそうだったとしても、その姿は「希望」になりえないからだ。見るからに汚い渋谷川を4人の少女が前を向いて、歩く。水しぶきを上げ、泥まみれのルーズソックスで、不機嫌そうに、退屈そうに。彼女たちが生きるのは、宮古島の海岸なんかじゃない。渋谷のどぶ川のように、みじめで冷たい「終わっている世界」だ。それでも立ち止まらず、振り返らず歩く。不ぞろいな歩みとへたくそな歌謡曲。だけれど私はいつも、そこに確かな「希望」を感じるのだ。