“Gish Note”はDieSixxの映画評だけをまとめたブログです。

『キャット・ピープル』(ジャック・ターナー)

"Cat People"1942/US

 RKOスタジオが、演劇界の風雲児オーソン・ウェルズを招き、製作した2本の映画(『市民ケーン』、『偉大なるアンバーソン家の人々』)は映画史上の財産にはなったが、肝心かなめの撮影所の経営状況を救うことはできなかった。それどころか莫大な予算といたずらに長い撮影期間によってスタジオをさらなる窮地に追い込んでしまう。こうした状況を打破するため、低予算早撮りの映画製作部門(Bユニット)の責任者に、オデッサ生まれのプロデューサー、ヴァル・リュートンが任命される。リュートンが手掛けた『キャット・ピープル』は、1万4千ドルの低予算と17日間の限られたスケジュールで、ウェルズがもたらした債務を回収するできるだけの収益を上げた。その後、リュートンが4年間でプロデュースした低予算映画のほとんどはローキーの不吉な画面を基調とした怪奇映画であり、かくして映画史に「B級ホラー」というジャンルが刻まれることとなった。
 こうした基礎情報は『キャット・ピープル』を語る上で欠かせないものかもしれない。だが、私がこの映画を見返すとき、いつも胸をうたれるのは、シモーヌ・シモンが演じるイレーヌのあまりにふびんなてん末と、異形の者に寄り添うジャック・ターナー監督のまなざしである。だから私にとって『キャット・ピープル』は、ホラーやスリラーである前に、愛と哀しみに満ちたメロドラマだった。

 セルビア系アメリカ人のイレーヌは、動物園で黒ヒョウをスケッチしているところを青年オリバー(ケント・スミス)にナンパされ、恋に落ちる。突然現れた「アメリカで初めての友達」に胸をときめかせるイレーヌを、シモーヌ・シモンがかれんに演じている。オリバーはほどなくしてイレーヌに結婚を申し込むが、彼女にはある不安があった。自分が魔女の末えいであり、「猫族(キャットピープル)」だと信じていることだ。愛した男を食い殺してしまうという一族の伝説を恐れて、イレーヌはオリバーとの関係を深めることができない。結婚後もセックスどころか、キスすら許してもらえないわけだが、オリバーは「待つよ」とやさしくイレーヌを抱き締める。しんしんと降りしきる雪がうつくしい。

 ターナー監督はふたりの関係を「王道」のラブロマンスとして描きながらも、その先にある悲劇への予感を忍ばせる。コントラストの効いたライティング、イレーヌの部屋のゴシック調の美術設計は不穏でエロティックな印象も残す。
 「王道」をカッコ書きにしたのには意味がある。当時のハリウッド映画にはヘイズコードがあり、いわば映画界全体が〝セックスレス〟だった。劇中、イレーヌとオリバーは別々の部屋で寝ているが、この時代のハリウッド映画では夫婦が寝室を共にする描写はほとんど見られない。『キャット・ピープル』は、こうした夫婦の問題を正常でない状態として描くことで、逆説的にタブーに切り込むことができた。これは製作者、監督、主演女優の全員が、非ハリウッドのヨーロッパ出身者であったことも大きいのかもしれない。
 ハリウッド映画が〝去勢〟されていた一方で、当時のアメリカ社会では、フロイト精神分析が輸入され、性への意識改革が広まっていく。『キャット・ピープル』の後には、アメリカ人の性生活を調査した「キンゼイ・リポート」が発表され、「女性の性欲」もクローズアップされた。ピル解禁、女性解放運動、ウーマンリブといったムーブメントが続き、女性の性が解放されていくなかで、そこから取り残される女性たちの恐怖もまた時代の気分として映画に反映された。『キャット・ピープル』を筆頭に、『恐怖の足跡』(1961) 、『たたり』(1963)、『反撥』(1964)といった系譜が連なっていく。
 『キャット・ピープル』でも、精神医学的なアプローチがみられる。オリバーの勧めでイレーヌは精神科医(トム・コンウェイ)に診察をしてもらうが、この医師がオリバーの同僚アリスの紹介だったことを知り、イレーヌは激高する。このあたりから二人の結婚関係にも亀裂が生まれ、その間隙をつくようにアリスは自らの恋心をオリバーに打ち明ける。アリスの狡猾さにも驚くが、さらに上を行くのは「最近妻を愛しているのかよくわからない…」と口走るオリバーのクズ人間ぶりである。
 嫉妬にかられたイレーヌは徐々に怪物化し、アリスをおびやかす。通算2回あるアリスへの襲撃シーンは、いずれもリュートンタッチの恐怖演出が存分に味わえる。わかりやすいモンスターは登場せず、街路樹のざわめき、不意に画面に滑り込むタクシー、プールサイドでゆらめく水面の影など、間接表現だけで観客の恐怖と緊張を高めていく。『キャット・ピープル』がホラー映画としていまも色あせない輝きを放っているのは、こうした部分だろう。

 さらに特筆すべきは、イレーヌをあくまで弱者として位置付ける視点である。オリバーへの愛情と猫族としての魔性との間で引き裂かれ、バスルームでひとりむせび泣く。疎外感と罪悪感に押しつぶされそうなイレーヌの心のゆらぎが痛々しく、私たちはいつのまにか、あわれな猫女に感情移入しているのだ。キャット・ピープルが本当に存在するのか、それともイレーヌの誇大妄想なのかーー。その判断は、最後まであいまいにされている。精神科医の治療やイレーヌの悪夢は、この時期の映画によく見られるニューロティックな表現がされているが、重要なのはイレーヌの「妄想」が徐々に周囲にとっての「真実」へと変質していくところだ。アリスはイレーヌの危険性を精神科医に相談し、オリバーはイレーヌに別れを告げる。ふたりは精神科医を交えて、今後のイレーヌの処遇について談合する。イレーヌを入院させれば離婚できないので、アリスと再婚できない。なんとか協議離婚しよう…と、クズのようなことを話し合っている。いったいどちらが怪物なのか。『キャット・ピープル』でほんとうに恐ろしいのは、この3人の事務的で淡々とした偽善性である。イレーヌの一族に伝わる物語はどこか中世の魔女狩りを連想させるが、この場面からはそれと同質の狂気が透けて見えるようだ。

 人間の愛を得ることも、怪物として生きることもできないイレーヌは、オリバーにそっと別れを告げる。この映画で最もうつくしく、痛ましいカットである。映画冒頭、初めて部屋を訪れたオリバーを見送るカットとほとんど同じ構図を反復している。オリバーに向けて手を振ろうとするというシモーヌ・シモンの身ぶりがとても美しい。ここにメロドラマとしての『キャット・ピープル』の真骨頂がある。
 イレーヌは動物園の檻の中から黒ヒョウを解放し、力尽きる。黒ヒョウは車に轢かれてあっけなく命を落とし、イレーヌの亡きがらもまた、醜い黒ヒョウの姿に変わっていた。その姿をみとめ、オリバーとアリスは彼女の物語が真実であったと悟る。異形の者に背を向け、足早に立ち去る二人を、斃れた黒ヒョウが見送る。そのみじめな姿は、踏みにじられてきた女性たちの、幾多の魂のようにもみえる。