Torso/1973/IT
ジャッロと呼ばれるイタリア製スリラーは、マリオ・バーヴァ、ダリオ・アルジェント、セルジオ・マルティーノ、ウンベルト・レンツィ、ルチオ・フルチなどが放った個性的な作品群で、ジャンルとしての隆盛を極めた。ミステリーの体裁をとってはいるが、フーダニットや謎解きのプロセスはたいていおざなりにされ、露悪的な殺人シーンや過剰なヌード表現、異常なテンションのBGMなどに通俗的な味わいがある。アメリカの80年代スラッシャー映画への影響がよく指摘されるが、土曜ワイド劇場のミステリードラマにも似た雰囲気がある。
ジャンルにこだわらない職人監督だったマルティーノも、70年代初期に何本かのジャッロを手掛けた。『影なき淫獣』はそのなかでも最良の1本とされる。マルティーノ自身は、本作と"La Coda Dello Scorpione"(1971)をお気に入りに挙げている。覆面の殺人鬼は『13日の金曜日』(1980)に模倣されたとされるが、最も顕著なフォロワーは、クエンティン・タランティーノ監督の『デス・プルーフ』(2007)ではないか。
劇中では若くセクシーな女性たちが大勢登場し、特に意味もなく、わりと簡単におっぱいを丸出しにする。男たちも男たちで、あけすけに彼女たちに好色な視線を送る。物語にほとんど絡まない端役に至るまで、どいつもこいつもはしたない面構えなのだ。さらに異常なことにカメラもまた、彼女たちの肉体を無遠慮に見つめ、性欲をあおる。画面全体にあふれた倒錯的で猥雑なエネルギーが、暴力的な殺人シーンへと昇華していくつくりは『デス・プルーフ』とそっくりだ。
見世物的に女の子たちが殺されていていく前半部とは打って変わり、後半はきまじめで正攻法の活劇へとかじを切る構成も共通している。『デス・プルーフ』では血沸き肉躍るカーアクションだったが、『影なき淫獣』の場合は緻密な演出とストーリーテリングで引き込む極上の密室劇だ。
4人の女子大生が休養に訪れた山の上の別荘で、主人公のジェーン(スージー・ケンドール)だけが殺人鬼に気づかれず、命拾いする。偶然足首をけがして、2階で休んでいたためだ。思い通りに行動できないジェーンが、階下で死体を解体する殺人鬼に気づかれずに、いかに生き残るかが後半の見どころになっている。
ハンディキャップを負ったヒロインと殺人鬼の駆け引きは、盲目の女性を主人公にしたリチャード・フライシャー監督の『見えない恐怖』(1971)を下敷きにしている。一度は屋敷を離れた殺人鬼が再び舞い戻る展開などを参考にしたとみられるが、舞台設定や小道具を効果的に用いた緊迫感は本作も引けを取らない。
先述したようにジャッロ映画では、フーダニットや謎解きは重視されない。本作も例に漏れず、さんざんミスリードした挙げ句に「意外な真犯人」が明らかになり、犯行動機や殺人鬼のトラウマが後付け的に説明される。怪しげな男たちが跋扈する本作のなかで、不自然なほど「怪しくない」という点で、逆説的に真犯人が推認できてしまうものの、マルティーノは真犯人の二面性にそれなりのこだわりがあったようだ。昼間は息子たちと公園で遊ぶマイホームパパが、実は残虐なバラバラ殺人に手を染めていたというイタリアで実際に起きた事件に着想を得たと語っている。
ちなみに原題の直訳は「遺体は性的暴行を受けた形跡がある」という身もふたもないもの。観客の下世話な興味を刺激し、なおかつジャッロ映画でしばし用いられた新聞見出し風のタイトルになっている。これも初めて知ったが、当初マルティーノは"I Corpi non Presentano Tracce di Violenza Carnale"(遺体は性的暴行を受けた形跡がない)というタイトルを付けていたのに、配給会社が否定の「non」を勝手に外してしまったという。確かに作品を見ると、元タイトルのほうが真犯人の性的不能性を表現していてしっくりくる。ストーリーに支障がないとはいえ、まったく逆の意味にタイトルを書き換えてしまう恐るべき商業主義。イタリア映画界のスノッブな性格がよく表れたエピソードでもある。