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『魔女の宅急便』(宮崎駿)

 Kiki's Delivery Service/1989/JP

草原に寝そべって、ラジオの天気予報に耳をすます一人の少女がいる。今夜は満月でよく晴れるらしい。不意に立ち上がった少女は並々ならぬ決意を胸に駆け出す。出発は今夜しかない。
 『魔女の宅急便』は思春期の少女の目の前に、世界が開けていくときの不安と胸の高鳴りを活写した「スタジオジブリ映画の最高傑作」だ。宮崎駿監督作が商業的に成功した最初の1本だが、その後宮崎は個人的な作品づくりに向かい、作家性を強めていく。本作は、音楽監督高畑勲作画監督近藤喜文など「スタジオジブリ」の総合力が結実した最良の作品とおもう。
 宗教学者島田裕巳の評論集『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』の中に『魔女の宅急便』をあつかった章がある。島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般における「通過儀礼の不在」を指摘。「キキは、すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」とし、きびしい現実に直面することなく物語が終わってしまっている点を批判している。「すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」という指摘には、同意するが、私はキキが成長していないとは思わない。
 好意が受け入れられたか、受け入れられなかったかをめぐり、キキは一喜一憂を繰り返す。ほとんどそれだけで話が進むといっていい。晴れた夜に旅立ちたい、新しいホウキで行きたい、服がコスモス色ならいいのに―。ドラマチックな旅立ちを思い描くキキを、母親は「あまりかたちにこだわらないで」とたしなめる。キキは「わかっている」と返すが、実はまったくわかっていなかった。
 キキの思い描く「理想の旅立ち」は海の見える街に着いて早々にくじかれることになる。「魔女がくる」というだけで歓迎されるものとばかり思い込んでいたキキは、警察官に飛行を注意されたり、ホテルで身分証明を求められたりと想定外の反応に困惑し、意気消沈する。そんなときに、パン屋のおソノさんと出会う。おソノさんに代わり、客の忘れ物を届けることで、キキは住む部屋を得る。空を飛ぶという才能は、人のために役立てることで初めて受け入れてもらえるのだと、キキは無意識に学ぶ。その後も物語は同じような他者への期待と落胆を弁証法的に反復していく。
 翌日、自分の才能が少なからず役に立つことに気づいたキキは宅急便を始めることにした。「私、空を飛ぶしか能がないでしょう?」というせりふからも、彼女が自分の才能をいくぶん謙虚に受け止めるようになったことがわかる。さっそく仕事をもらったキキは「この街が好き」と声を弾ませる。「街」はキキにとって他者そのものだ。いくつかのトラブルや新しい友達(画家のウルスラ)との出会いを経て、なんとか最初の仕事を終えたキキは「素敵な1日だった」と満足げに振り返る。

 次に描かれるのは対照的に「みじめな1日」だ。「孫娘の誕生日に温かいニシンのパイを」というおばあさんのため、キキはパイづくりを手伝い、雨の中急いで届ける。ところが当の孫娘にはちっとも感謝してもらえず、「このパイ嫌いなのよね」とまで言われてしまう。がっかりしたキキは、招待されていたパーティーにも行かずにベッドにもぐり込み、翌日は高熱で寝込んでしまう…。キキの奮闘ぶりやおばあさんのやさしさを見ている私たちにしてみれば、孫娘の反応はひどく冷淡に見える。ただ、ここで描かれるのは、他人と深く関われるときに必ず付きまとう「好意」の厄介な一側面だ。自分の「好意」がいつも他人に感謝されるとは限らないし、かえって迷惑なときもある。孫娘にしてみれば、キキの気持ちなど知りようがないし、嫌いな食べ物を毎年届けられるのもありがた迷惑な話である。彼女にも彼女の気持ちがあるわけで、そんなことでいちいち落胆していれば人間関係は立ち行かなくなってしまう。だけれど、キキには割り切れない。それはキキがまだ人間として未熟だからだ。
 病気が治り、キキはトンボと海に行き元気を取り戻すが、トンボが別の友達(例の孫娘もいる)と親しくしているのを見てすぐに機嫌を損ねてしまう。直後、ジジと言葉を交わすことができなくなり、空を飛ぶ能力も失われてしまう。未熟なキキに大人になるための「通過儀礼」が迫っていた。
 キキにとって「街」が他者だとすれば、「ジジ」は自己の分身といえる。ジジとの関係は親密でつねに安全だ。トンボと距離を縮め、せっかく心を開こうとしていたキキは、つまらない意地を張ることで再び他者を拒絶し、遠ざけてしまった。一方、ジジは、当初は「気取ってやんの」と敬遠していた近所の猫と自力で関係をきずき、キキとの自閉的な共同体から一歩踏み出す。この時点でキキとジジの成長に差が生まれ、二人の幼年期は終わってしまった。

ほとんど唯一の才能だった空を飛ぶ能力とジジとの親密で安全な関係を喪失し、キキはいよいよ真剣に他者と向き合い、自己を見つめなおさざるをえなくなった。ここで重要な役割を果たすのが、画家のウルスラであり、キキが歩むべき道を指し示す。二人の声を同一人物が演じているのは必然ともいえる。キキは、ジジからウルスラへと「分身」をシフトさせる必要があった。だから空を飛ぶ能力がよみがえっても、ジジと言葉を交わすことはできない。キキもまた、他者との関係へと踏み出してしまったからだ。
 ウルスラからのアドバイスを得た後、キキは「ニシンのパイ」のおばあさんにケーキをプレゼントされる。自分の好意は孫娘には届かなかったけれど、おばあさんにとってはやはりうれしいものであったし、無駄にはならなかった。見当はずれな期待のせいで、他者とすれちがい、裏切られたように感じることがあっても、やさしさはきっと誰かを幸せにするし、自分に返ってくることもある。ゆるやかな自信回復を経て、物語はクライマックス「トンボの救出劇」に向かっていく。おばあさんのケーキがあったからこそ、キキはためらうことなく走りだし、トンボを助けにいくことができた。

「トンボの救出劇」はデッキブラシをうまく操ることができない飛行のあやうさもあいまって、息をのむスペクタクルシーンに仕上がっている。さらにこの場面は、人のために身を投げ出し、命を救う者に人々が声援を送るというヒーロー譚としての味わいがある。サム・ライミ版『スパイダーマン』のクライマックスのようでもあり、宮崎監督作のなかでも屈指の「燃える」場面だ。いずれにしてもこの場面は、キキがふたたび人のために働き、街に受け入れてもらうための「通過儀礼」として十分な役割を果たしている。
魔女の宅急便』でわけてもうつくしいのが、エンディングだ。スタッフクレジットのバックに後日談が描かれている。宅急便の仕事に励んだり、時計台でおじいさんと談笑したり…キキが街を愛し、また街から愛される存在になったことを丹念につづる。劇中でキキが直面したさまざまな葛藤への変化もさりげなくちりばめられている。たとえばキキは街のおじいさんに借りたデッキブラシをそのまま使っている。不恰好でこっけいに見えるデッキブラシの魔女は、真新しいホウキで旅立とうとしていたかつてのキキとは明らかに違っていて、「かたち」より「こころ」を大切にしていることがわかる。それからトンボとキキを追いかける車に乗った仲間たちの中には、あの孫娘の姿がある。彼女とキキが仲良くなるようなご都合主義は避けつつ、歩み寄りへの期待を感じさせる控えめな表現だ。

キキが、自分と同じ格好をした小さな女の子に出会うシーン。キキは序盤に登場したショーウィンドウの赤い靴を見ている。自分には不恰好に見えていても、別の誰かにとってはあこがれの存在かもしれない。鮮やかで繊細な自己肯定の表現に舌を巻く。パン屋では女の子と仲良くおしゃべりし、警官と手を振り合う。そう、ささやかだけど、確かにキキは変わったのだ。
 そしてラストの両親に宛てた手紙である。「落ち込むこともあるけれど、私この町が好きです」。きっとキキは、あいかわらず他人を思いやっては、すれちがい、傷つき、落ち込んだりするだろう。そのたびに、別の誰かのやさしさに触れて、また他人のために走り出さずにはいられなくなる。出会いへの期待と落胆を、情けない一喜一憂を、繰り返しながら、それでも胸を張って「この街が好き」と言う。劇的な「通過儀礼」じゃない。小さくて不器用な一歩だから、この映画は今も人々の心を励まし続けている。