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『シェラ・デ・コブレの幽霊』(ジョセフ・ステファノ)

"The Ghost of Sierra de Cobre"1964/US

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 長らく「幻の映画」だった『シェラ・デ・コブレの幽霊』が、今年ついにアメリカでソフト化された。私も迷うことなく入手したが、世界中のシネフィルや映画マニアが長年恋い焦がれていた映画が、ついに自宅に届いたときにはさすがにふるえた。見たい見たいと願いながら、夢かなわず死んでいった人たちもいただろう。簡単に見てしまっていいものなのか。しばらく逡巡したのち、厳かな気持ちで再生ボタンを押した。そして映画を見終えた私の心に残ったのは、満足感よりむしろ、幻が幻でなくなったことへの一抹の寂寥感であった。

 それにしても、これほど魅惑的なストーリーを抱えた映画もそうはあるまい。『サイコ』で知られる脚本家、ジョセフ・ステファノが自らメガホンをとり、テレビシリーズのパイロット版として製作されたが、そのままお蔵入りとなり、ステファノの監督作は生涯この1本のみとなった。作品が封印された理由として、あまりの恐ろしさに試写会で局幹部が嘔吐したためという逸話がまことしやかにささやかれた。

 日本では1967年に「日曜洋画劇場」で放送。たった一度きりの放送が、多くの人々の心に爪あとを残した。もっとも有名なのが脚本家、高橋洋であり、この当時の衝撃的な映像体験が、のちの『女優霊』や『リング』へと結実していく。さらにテレビ番組「探偵ナイトスクープ」で「史上最高に怖い映画」として取り上げられたことで、作品の存在は広く知れ渡るようになった。

 世界の恐怖映画史で重要な位置を占める1本だが、現存するフィルムは世界で2本しか確認されておらず、権利関係の錯綜もあいまって、ソフト化や再上映の機会はほとんどなかった。この希少性も作品を神格化し、人々の渇望を刺激した。2本のうち1本は、映画評論家の添野知生氏が所持していて、近年は国内で上映される機会もあるにはあった(前述の「探偵ナイトスクープ」でも、映画を見たいという依頼者に添野氏がフィルムを見せている)。それでもやはり幻は幻であった。

 さて実際に作品を見て、さびしさを覚えたと書いたけれど、作品そのものに幻滅したわけではない。半世紀以上前の映画であり、もちろん技術的な古さはある。だけれど確かにこの作品は「史上最高に怖い映画」だったのだ。

 マーティン・ランドー演じるネルソン・オライオンは、盲目の資産家マンドールから「死んだ母から電話がかかってくるので調べてほしい」と依頼を受ける。オライオンは建築家だが「心霊探偵」としての顔も持っていて、おそらくテレビシリーズは彼を主人公に、毎回不可解な依頼を解決していくというストーリーで企画されていたのだろう。

 マンドールの邸宅には、妻のヴィヴィアと家政婦のポリーナが同居している。2人は、幽霊に女教師が呪い殺されたといういわくつきの村、シエラ・デ・コブレの出身であった。調査を進める過程でオライオンは、恐ろしい超常現象や油絵から抜けだしてくる幽霊を目撃。幽霊に呪われているのはマンドールではなく妻のヴィヴィアであると見破った。彼女とポリーナは実は親子で、かつてシェラ・デ・コブレ村で幽霊を売りにした見世物興業で身銭を稼いでいた。幼いヴィヴィアが客を墓場に連れていき、ポリーナが簡単な仕掛けで驚かすというものだったが、幻覚作用を及ぼすドラッグを服用させることで劇的な効果をあげていた。ところが、ある女教師はドラッグの効果がなく、料金の支払いを拒んだ。ポリーナがさらに多くのドラッグを服用させたたため、女教師は狂ってしまう。怖くなった二人は女教師を地下の墓地に閉じ込めて殺害した。ヴィヴィアの口からおぞましい真相が語られたとき、ふたたび幽霊が現れる。

 異様な雰囲気をたたえた家政婦役にはジュディス・アンダーソン。ヒッチコックの『レベッカ』(1940)をかなり意識したキャスティングとなっている。美しい人妻ヴィヴィアを演じるダイアン・ベイカーも、ヒッチコックの『マーニー』(1964)に出演。ほかにも何本かのサスペンスドラマで、ヒロインを演じているようだが、『羊たちの沈黙』(1991)での上院議員役が有名だろう。

 さすがステファノの脚本とあって、ミステリーとしても非常によくできている。超常現象を見せる演出も堂に入っていて、特に最初の恐怖シーンとして描かれる納骨堂でのポルターガイスト現象は不吉な音響効果と絶妙に気持ち悪いカット割りもあいまって見ごたえがある。しかし、やはり真骨頂は油絵から這い出した幽霊が観客に迫ってくる表現だろう。ソラリゼーションで反転させた女性像を合成するという単純な特撮だが、見るものに生理的な不快感と恐怖を及ぼすような強烈な魔力がある。「死に見入られる感覚」とでもいうのだろうか。「試写でテレビ局幹部が嘔吐した」という話もあながち嘘ではないのかもしれないと思わせるのだ。

 むかし、高橋洋氏はラジオ番組で興味深いことを語っていた。

 恐怖映画の「怖さ」もどんどん進化して、程度が上がっているわけです。たとえば、今の僕らにとって怪奇映画として定着している『吸血鬼ドラキュラ』(1958)。あの映画の公開時は、宣伝半分ですが、看護婦を劇場に待機させて、失神した人運ぶとかやってたわけです。『吸血鬼ドラキュラ』見て、そんなにセンシティブに怖いなんてことありえないだろうって思うけど、実際当時の記事を読むと「口中を血だらけにしたドラキュラの顔のアップが映った時、悲鳴を上げる人がいた」と。ここからは思考実験ですけど、その時代に劇場で悲鳴をあげていた人が、タイムスリップで1974年に来る。そこで『悪魔のいけにえ』を見てしまうと「たぶん死ぬぞ」ってなんとなく思うんです。

 現代の私たちが『シェラ・デ・コブレの幽霊』を真に怖がるのはむずかしい。私たちは『悪魔のいけにえ』や『リング』を知っている世代だから。でもあの時代もし、まかり間違って『シェラ・デ・コブレの幽霊』が封切られていれば、もっと広くテレビで放映されていれば、あるいは誰か一人くらいは殺せたかもしれない―。そんなことを夢想せずにはいられない。だから、いつか映画がついに人を殺してしまうその日まで、この映画は依然として「史上最高に怖い映画」なのだ。

 

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