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『蠅の王』(ピーター・ブルック)

"Lord of the Fries"1963/GB

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 ウィリアム・ゴールディングの傑作小説「蠅の王」を読んだのは中学生のとき。どこで目にしたのかは忘れたが「暗黒版『十五少年漂流記』」とかいうふれこみに惹かれ、手に取ったおぼえがある。少年漂流ものの系譜に位置する作品なのだけど、スティーブン・キング楳図かずおなど後進のホラー文化に与えた影響も大きい。あるいは「バトル・ロワイヤル」的なサバイバルアクションの源流とみることもできる。

 映画化には1963年のピーター・ブルック監督版と 1990年のハリー・フック監督版がある。残念ながら私はフック版は未見だが、ブルック版は非常に忠実で、決定版といっていいできばえだ。ブルックはもともと演劇界の人間で、監督3作目となる本作でははじめてシナリオも手掛けているが、原作の持つ寓話性、象徴性を損なうことなく、みごとに映像化している。ちなみにブルック版のDVDジャケットには楳図の描き下ろしたイラストが採用されていた。

  映画の冒頭、少年たちが無人島にたどり着くことになったいきさつが静止画のみで語られる。世界で核戦争が勃発し、子どもたちは飛行機で疎開することになるのだが、敵機の攻撃を受け、無人島に不時着したー。ゴールディングは初稿段階で、物語にこんなプロローグを用意していたけど、最終的にすべてを削ってしまったという。結果として、作品の抽象性と寓話性を増すことになった。映像化にさいして、ブルックもこの方法論にならい、最小限の情報で状況説明を済ませている。

 作品のかなめといえる子どもたちのキャスティング、演出にはなみなみならぬ力が注がれている。なかでも重要なキャラクターは4人で、それぞれにシンボリックなアイテムが与えられている。

 主役格といえるラルフ(ジェームズ・オーブリー)は見るからに聡明かつ快活な美少年だ。自信に満ちあふれ、知性とリーダーシップをそなえているのに、ちっともいやみなところがない。学校の誰もが彼と友達になりたいと思わずにいられない。ラルフはそうした特別な少年である。彼はほら貝で子どもたちを集め、議論の場を設ける。多数決で集団のリーダーに選ばれてからは、いくつかのルールを設け、無人島から救出されるための最善の方法を考えている。ほら貝は、冷静な議論と合意形成でつくる民主主義の象徴だ。

  ラルフが無人島で最初に出会う太っちょでめがねをかけた少年ピギー(ヒュー・エドワーズ)は反対に、周囲から軽んじられるいじめられっ子だ。なにしろ彼は最後まで本名すらわからないままなのだ。ラルフがすばやく服を脱ぎ捨て、海で泳ぐのに対して、ピギーはいかにもどんくさく、緩慢な動きで靴下を脱ぎ、砂浜から羨ましそうにラルフの姿を眺める。この情けないたたずまい!ピギーというあだ名をラルフにばらされ、めがねを拭きながら木の陰に逃げ隠れていくしぐさもペーソスに満ちている。しかしこの気の毒な少年が、集団の中でもっとも理知的で、論理を重んじてもいる。ピギーのめがねは文明や理性の象徴と理解できるけど、火を起こす機能もあり、後半はそれがいさかいの種となってしまう。その意味ではテクノロジーや資源を暗喩している。

  ラルフが拾ったほら貝を吹き鳴らすと、島の中で散り散りになっていた少年たちが続々と集まって来る。不意に超ロングショットに切り替わるカット割りには意表を突かれる。同時に、少年たちのよるべのない境遇を際立たせてもいる。

  そこにもう一人の主要キャラクターであるジャック(トム・チェイピン)率いる聖歌隊がやってくる。南国のビーチに不釣り合いな黒マントを羽織り、あどけない歌声を響かせながら、行進してくるかわいらしさはどうだろう。でも、物語が進むにつれ、彼らは内なる獣性に目覚め、凶暴化していく。洗練された聖歌隊が、野蛮で暴力的な狩猟民族に堕していく皮肉。彼らが歌う「キリエ、キリエ、キリエ・エレイソン♪」という印象的なメロディーは、本作のメーンテーマとしてくりかえし使用されているが、軍隊の行進曲のようにも聞こえる。先進国を自称しながら「文明化」の名の下に殺りくと搾取を進めた英国植民地主義へのアイロニカルな視点もみえる。

 ジャックは初めからプライドが高くて、尊大なキャラクターとして描かれている。ナイフを木に突き立てて、子どもたちの喧騒を一瞬にして鎮める場面に、すでに権威主義的な性格があらわれている。チェイピンはオーブリーとは対照的な陰のある美少年だが、負けず劣らずの名演を見せている。わけても印象に残るのは、ラルフと決裂し、集団から去っていくときの不安と後悔に満ちた表情である。衝動的に群れを飛び出し、自分でも間違ったことをしているとわかっているのに、引き返すことができない心理をうまく演じている。原作小説にある心情描写をナレーションやモノローグに頼ることなく、ロングショットとクローズアップをたくみに使い分けることでみごとに表現している。

 もう一人、聖歌隊に属する寡黙な少年サイモン(トム・ゲイマン)はのっけから貧血で倒れたり、一人でトカゲと遊んだりしている不思議キャラだ。ただ、子どもたちが恐れる「獣」の正体が自分たちの中にあると本質を見抜いたり、「蠅の王」と対峙したりと、いたこ的な役割を担っている。そして、暴力と集団心理に取り憑かれた子どもたちの最初の犠牲になるのがサイモンであり、そこにはキリスト的な役割も与えられている。

  さっき「暗黒版『十五少年漂流記』」と書いたけれど、実は「蠅の王」には別の種本があることを最近知った。ロバート・マイケル・バランタインの児童文学「珊瑚島」(1858)だ。当のゴールディングが、ラルフ、ジャック、サイモンの名前を、この作品から拝借したと認めているというのだ。「珊瑚島」の少年たちも未開の島に流れ着くのだが、「英国人らしい」知性と高潔さで野蛮な現地民に食人の風習をやめさせたりする。第二次世界大戦での従軍経験もあるゴールディングは、「珊瑚島」から欧州人の欺瞞と独善を引きはがし、「蠅の王」を書いた。「すぐれた文明人」の「正義」の帰結は、ホロコーストであり、ヒロシマナガサキであり、残酷で野蛮な大量殺りくでしかなかったからだ。ルッジェロ・デオダートの『食人族』(1980)をはるかに先取った発想ではないか。

 そう考えると物語の冒頭、少年たちがむやみやたらと「ぼくらは英国人だ!」と連呼するのもうなづける。はじめは無邪気に遊び暮らしていた少年たちはみるみると薄汚れ、楽園のような無人島は徐々にきびしい「戦場」に変貌していく。あどけない少年たちが暴力の興奮と快楽にのみこまれていくすがたを、ブルックはドキュメンタリーのように冷徹な視線で、フィルムに刻み込んでいく。

  おそろしいなあとおもうのは、ボディペイントをほどこし、未開の部族のようにふるまう少年たちがもはや「演技」の域を超え、心から高揚しているように見えるところだ。「英国人」としての殻を脱ぎ捨て「狩猟隊」を“演じている”子どもたちと、実際に演技をしている子供たちが重なり、虚構と現実の境界があいまいになるふしぎな感覚におそわれる。ブルックの演技指導のたまものなのだろうけど、撮影後の子どもたちもまた、みずからの内面にひそむ暴力性に気づき、慄然としたのではないか。

 物語のクライマックスは、孤立無援となったラルフの逃走劇へと突入。原作にあるラルフのなまなましい恐怖心描写は省かれ、「殺せ!殺せ!」という少年たちの凶暴なシュプレヒコールがこだまする悪夢的な空間が展開する。煙でいぶりだされ、砂浜にまで追い詰められるラルフ。当初は子どもたちが戯れ、議論する「楽園」として描かれていた砂浜が文字通りの戦場と化しているのも皮肉だ。子どもたちの狂騒がピークに達したとき、画面に初めて「大人」が登場する。島中が炎につつまれ、奇抜な化粧をした子どもたちが暴れまわる異様な光景を、呆然と見つめる「大人」に、小さな男の子が近づき、泣きそうな顔になる(この顔がまた何ともいえない)。原作ではラルフと「大人」が短い会話を交わすが、映画では省略され、ただ無言で涙をこぼすラルフの顔のアップだけが映し出される。この事実上のラストカットが、映画『蠅の王』の白眉といっていいだろう。泥まみれの美少年が見つめる先はなんだろう。最後まで濁ることのなかったラルフの瞳は、真っ白で清潔ないでたちの「大人」たちの中に野蛮な暴力性がひそんでいることを見抜いている。その視線は、画面を見守るたちにも向けられている。まっすぐに見返すことが、できているだろうか。

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