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『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(本多猪四郎)

"Frankenstein Conquers the World"/1965/JP-US

 東宝怪獣映画で初めてアメリカと合作した本作は、20世紀フォックス東宝に持ち込んだ「キングコングフランケンシュタイン」という企画が基になっている。「アメリカの二大怪物のドリームマッチを、『ゴジラ』で有名なニッポンの映画会社につくらせよう」という発想じたいが、映画『キングコング』の興業屋のそれで笑えるが、とにもかくにも、この企画からまず『キングコング対ゴジラ』(1962)が産み落とされた。残ったフランケンシュタインは、『ガス人間第一号』(1960)の続編「フランケンシュタイン対ガス人間」、ゴジラ映画の新作「ゴジラフランケンシュタイン」と流転した末に、最終的に新怪獣バラゴンが登場する本作の企画へと落ち着いたようだ。
 物語は第二次世界大戦末期のドイツから始まる。毒々しい色の薬品が入った試験管やフラスコが並ぶ、いかにも東宝チックな研究室にナチスの将校たちがずかずかと上がりこみ、なにやら大きなトランクを没収していく。ナチスはこのトランクをUボートで運び、日本軍の潜水艦に引き渡すが、直後に連合軍に撃沈される。中身を知らされないままトランクを広島の病院に運んだ海軍大尉・河井(土屋嘉男)は、軍医(志村喬)からその中身がフランケンシュタイン(人造人間)の心臓であり、「弾に当たっても死なない兵士」を開発するための日本軍の切り札だと聞かされる。しかし、その研究はアメリカによる広島への原爆投下によって中絶してしまうのだった…。
 怪奇ムード満点のスタッフクレジットに、ドイツ語が飛び交う緊迫の移送シーン、連合軍の空爆や原爆投下の特撮など冒頭からスペクタクルに富み、土屋、志村ら東宝映画おなじみの名優たちがアダルトな雰囲気を醸している。撮影前に本家『フランケンシュタイン』(ジェームズ・ホエール監督、1931年)を見返し、「厳粛な気持ちで演出した」と振り返る本多監督の気概が伝わってくるようだ。原爆投下前の広島市街地の遠景はマットペインティングと実景の合成だろうか、破壊される前の原爆ドームが描かれてる。『ゴジラ』をはじめとする昭和の特撮作品では、原水爆が重要な意味を持つことが少なくないが、直接的に原爆投下が描かれた作品は実はめずらしいのではないだろうか。

 時は流れ、戦後15年の1960年。本作の主人公であるボーエン(ニック・アダムス)、季子(水野久美)、川地(高島忠夫)の3人は原爆症患者の治療に当たりながら、放射性物質の研究をしている。両親を原爆で失い、自らも重い原爆症を患う少女、田鶴子(沢井桂子)は登場シーンは短いものの、作品のテーマの根幹に関わる重要なキャラクターだ。「あの子の人生って何と言ったらいいんでしょう」ととあわれむ季子、きわめて冷静沈着に「死にましたか」と口に出す川地、「われわれは、原爆の悲劇から何としても平和と幸福を引き出さなくてはならない」と奮起するボーエン。田鶴子に接する3人の態度に、すでに研究者としてのスタンスの違いが描かれている。
 季子は自宅の近くで、犬を殺して食べる「浮浪児」を目撃する。ちまたではウサギのバラバラ死体が小学校で見つかる怪事件も起きていた。季子の口から当たり前のように出てくる「浮浪児」という言葉にはやや面食らうが、身寄りもなく、住む場所もない戦争孤児は、終戦直後の日本にはあふれていたのだろう。原爆で大量の人々が殺りくされたまちであればなおさらのことだ。
 本作におけるフランケンシュタインは、まさにそうした子どもたちのメタファーではなかったか。戦争と原爆で、親を殺され、自らも傷つき、貧困と差別にまみれた幾人もの子どもたちこそ本作の主人公に思えてならない。その証拠に季子とボーエンは、田鶴子の命日に墓参りに出かけた先で、引き合わされたように少年と再会し、連れ帰ることになるのだ。
 2人が保護した少年は白人種で、生まれてすぐ被爆したのに、原爆症にならず、むしろ強靭な肉体をそなえていることがわかる。少年を取材している記者の「パンパンが生ませた混血児ではないか」というせりふや「放射能に強い怪童」のという新聞見出しも、時代とはいえ、なかなか無神経な表現である。もちろんスペル星人が封印されるより前の時代だ。
戦争孤児や被爆者に対する差別は日常的にあっただろうし、差別と意識されてすらいなかったのだろう。新聞記事を読んだ元海軍大尉の河井から「フランケンシュタインの心臓」の情報がもたらされ、この少年が人造人間である可能性が浮上する。だが、それを確かめるには手足を切断するしか方法がないという。
 ボーエン、季子、川地の違いについて先述したが、この作品がすぐれているのは、3人のキャラクターづけが、書き割りに陥っていない点だ。季子は少年を「坊や」といってかわいがるが、最後まで彼に名前をつけることはない。豪雨の中、タクシーに轢かれたフランケンシュタインに季子が初めて食事を与えるシーンを思い出そう。窓からパンを投げ与える水野久美の表情と所作は、慈愛に満ちていて、とてもうつくしい。その一方で、温かい食事が並ぶ季子の部屋と冷たい雨が降りしきる路上の間には、踏み越えられない断絶がある。季子はフランケンシュタインを「自分たちと同じ人間」と主張し、おそらく彼女の愛情には嘘はないのだけれど、どこか捨てられた子犬に接するような偽善性が透ける。
 フランケンシュタインを研究対象として見ている川地はどうか。「彼は普通の人間ではない」と言って手足を切断することに賛同したり、手首が手に入った途端フランケンシュタインを殺すことを「やむを得ない」と翻ったり、その言動は冷淡にも思える。だが、フランケンシュタインの手足を切断しようとするのをためらって、酒をあおり始めるなど、どこか憎めない一面ものぞかせる。
 立場的には二人の間に位置するボーエンもまた複雑だ。彼は季子に、自分がかつて原爆の製造に携わり、「人類を滅ぼすのではなく、再生させることに生涯をささげたい」と日本にやってきたと明かす。研究に行き詰まり、もう一度アメリカに帰ろうか迷っているとも…。アメリカ市場への配慮もあってか、周到に言葉を選んでいるが、ボーエンが自身の過去に罪悪感を抱えていることは間違いないだろう。アメリカが科学の粋を集めて発明した兵器は、投下から15年たった今も人々を苦しめ、科学はその苦しみを癒すことができない。放射能を克服したフランケンシュタインの存在は、ボーエンにとって希望である一方で、原爆に傷ついた子供たちの怨念を背負った呪いでもある。

 テレビクルーの撮影用ライトにおびえて暴れだし、病院から逃亡したフランケンシュタイン。季子のアパートを訪れるシーンでは、行き場のない怪物の孤独と哀しみ、怪物への愛情と恐怖の間で揺れ動く季子の心情がみごとに表現されている。巨大になった体を持て余し、すがるような表情で季子を見つめるフランケンシュタインだが、季子が一瞬だけひるみ、後ずさりするのを見て、自分への恐れを感じ取り、アパートを立ち去る。本作では、特撮シーンと本編が高度な受け渡しがいくつも見られるが、正攻法のカットバックにより描かれた怪物と美女の切ない別れのシーンは、その頂点を極めた名場面といえるだろう。本多猪四郎円谷英二のあうんの呼吸は言うまでもないが、フランケンシュタイン役の古畑浩二も文字通り一世一代の名演を見せている。
 逃亡中もフランケンシュタインはぐんぐんと成長していくが、同時に地底から現れた怪獣バラゴンも暗躍する。実はバラゴンは作品の本筋にほとんど関係ない「敵役のための敵役」といったキャラクターだ。バラゴンさえいなければ、フランケンシュタインには別の未来が待っていたのかもしれない。とはいえ、バラゴンの登場シーンもまた東宝特撮ここにありとでもいうべき、ディテールと工夫にあふれている。山小屋を襲うシーンの見事な合成、養鶏場のニワトリが写り、次のシーンではバラゴンの口から羽毛があふれる鮮やかな編集。狛犬をヒントにしたとされるバラゴンのデザインもシンプルながら愛嬌と造形美にあふれた傑作だ。蛇腹状の背中が特徴的な着ぐるみはその後、『ウルトラQ』のパゴス、『ウルトラマン』のネロンガ、マグラー、ガボラと再利用され、地底怪獣の定番フォルムとなった。クローズアップで目がぎょろぎょろと動くギミックもよくできている。

 バラゴンとフランケンシュタイン日本アルプスでついに激突する。ワイヤーワークや光学合成を取り入れた緩急自在なアクションも見どころだが、最大の魅力は、着ぐるみ怪獣と生身の(しかもほとんど半裸の)俳優がぶつかることで生まれる緊迫感だろう。バラゴン役の中島春雄は、すでに名人芸ともいえる円熟した怪獣演技を見せるが、新人の古畑も豊かな表情と身体性で画面を走り回る。フランケンシュタインが季子たちを救う展開や、人間の視点から巨人を見上げる画づくりには、1年後に放映される『ウルトラマン』の萌芽を見出せる。
 死闘の末に辛くもバラゴンに勝利したフランケンシュタインだったが、突然の地割れに襲われ、雄たけびを上げながらのみこまれていく。画面に向かって何を叫んでいたのだろうか。考えるといつも苦しくなる。自分をさげすみ、恐れ、追いやった人々のために戦い、ついには名前すら与えられなかった英雄の悲しい最期である。「死んだほうがいいのかもしれない所詮彼は怪物だ」というボーエン博士の言葉が重く響く。
 フランケンシュタインは架空の怪物だ。だが、彼と同じような子どもたちは、おそらく戦後にたくさんいたはずなのだ。戦争と原爆にすべてを焼きつくされた世界で、棄民のように扱われ、 自分が何者かもわからないまま、歴史からも、人々の記憶からも消え去っていった子どもたちが、確かに、いた。救いようのない彼らの魂をさがして、あわれな怪物の断末魔のさけびに、耳をすます。